ちん‐ちゃく【沈着】例文一覧 30件

  1. ・・・――甚太夫はそう思うと、日頃沈着な彼にも似合わず、すぐさま恩地の屋敷へ踏みこんで、勝負を決したいような心もちさえした。 しかし恩地小左衛門は、山陰に名だたる剣客であった。それだけにまた彼の手足となる門弟の数も多かった。甚太夫はそこで惴り・・・<芥川竜之介「或敵打の話」青空文庫>
  2. ・・・彼の言は、明晰に、口吃しつつも流暢沈着であった。この独白に対して、汽車の轟は、一種のオオケストラを聞くがごときものであった。 停車場に着くと、湧返ったその混雑さ。 羽織、袴、白襟、紋着、迎いの人数がずらりと並ぶ、礼服を着た一揆を思え・・・<泉鏡花「革鞄の怪」青空文庫>
  3. ・・・ たッた独りやに「沈着にせい、沈着にせい」と云うて命令しとる様な様子が何やらおかしい思われた。演習に行てもあないに落ち付いておられん。人並みとは違た様子や。して、倒れとるものが皆自分の命令に従ごて来るつもりらしかった。それが大石軍曹や。」・・・<岩野泡鳴「戦話」青空文庫>
  4. ・・・ドチラかというと寡言の方で、眼と唇辺に冷やかな微笑を寄せつつ黙して人の饒舌を聞き、時々低い沈着いた透徹るような声でプツリと止めを刺すような警句を吐いてはニヤリと笑った。 緑雨の随筆、例えば『おぼえ帳』というようなものを見ると、警句の連発・・・<内田魯庵「斎藤緑雨」青空文庫>
  5. ・・・ が、この不しだらな夫人のために泥を塗られても少しも平時の沈着を喪わないで穏便に済まし、恩を仇で報ゆるに等しいYの不埒をさえも寛容して、諄々と訓誡した上に帰国の旅費まで恵み、あまつさえ自分に罪を犯した不義者を心から悔悛めさせるための修養・・・<内田魯庵「三十年前の島田沼南」青空文庫>
  6. ・・・あたかも私の友人の家で純粋セッター種の仔が生れたので、或る時セッター種の深い長い艶々した天鵞絨よりも美くしい毛並と、性質が怜悧で敏捷こく、勇気に富みながら平生は沈着いて鷹揚である咄をして、一匹仔犬を世話をしようかというと、苦々しい顔をして、・・・<内田魯庵「二葉亭余談」青空文庫>
  7. ・・・光代は傍に聞いていたりしが、それでもあの綱雄さんは、もっと若くって上品で、沈着いていて気性が高くって、あの方よりはよッぽどようござんすわ。と調子に確かめて膝押し進む。ホイ、お前の前で言うのではなかった。と善平は笑い出せば、あら、そういうわけ・・・<川上眉山「書記官」青空文庫>
  8. ・・・と妻の沈着き払った答。「何故開けた、どうして開けた」「委員会から帳簿を借してくれろと言って来ましたから開けて渡しました」とじろり自分の顔を見た。「何だって私の居ないのに渡した、え何だって渡した。怪からんことだ」と喚きつつ抽斗の中・・・<国木田独歩「酒中日記」青空文庫>
  9. ・・・でもあるまいものが、あわぬ詮索に日を消すより極楽は瞼の合うた一時とその能とするところは呑むなり酔うなり眠るなり自堕落は馴れるに早くいつまでも血気熾んとわれから信用を剥いで除けたままの皮どうなるものかと沈着きいたるがさて朝夕をともにするとなれ・・・<斎藤緑雨「かくれんぼ」青空文庫>
  10. ・・・黄ばんだ柳の花を通して見た彼女――仮令一目でもそれが精しく細かく見たよりは、何となく彼女の沈着いて来たことや、自然に身体の出来て来たことや、それから全体としての女らしい姿勢を、反ってよく思い浮べることが出来た。 その晩、大塚さんは自分の・・・<島崎藤村「刺繍」青空文庫>
  11. ・・・ つぎには、これは築地の、市の施療院でのことですが、その病院では、当番の鈴木、上与那原両海軍軍医少佐以下の沈着なしょちで、火が来るまえに、看護婦たちにたん架をかつがせなどして、すべての患者を裏手のうめ立て地なぞへうつしておいたのですが、・・・<鈴木三重吉「大震火災記」青空文庫>
  12. ・・・この縞はたぶん紙を漉く時に繊維を沈着させる簾の痕跡であろうが、裏側の荒い縞は何だか分らなかった。 指頭大の穴が三つばかり明いて、その周囲から喰み出した繊維がその穴を塞ごうとして手を延ばしていた。 そんな事はどうでもよいが、私の眼につ・・・<寺田寅彦「浅草紙」青空文庫>
  13. ・・・という声が直ちにこの人の目をおおい隠して、眼前の絵の代わりに自分の頭の中に沈着して黴のはえた自分の寺の絵の像のみが照らし出される。たとえその頭の中の絵がいかに立派でもこれでは困る。手を触れるものがみんな黄金になるのでは飢え死にするほかはない・・・<寺田寅彦「案内者」青空文庫>
  14. ・・・毛孔の底に煤と土が沈着しているらしい。向い側に腰かけた中年の男の熟柿のような顔の真ん中に二つの鼻の孔が妙に大きく正面をにらんでいるのが気になった。上野で乗換えると乗客の人種が一変する。ここにも著しい異質の接触がある。 広小路の松坂屋へは・・・<寺田寅彦「猫の穴掘り」青空文庫>
  15. ・・・それで少々得意になったので外国へ行っても金が少なくっても一箪の食一瓢の飲然と呑気に洒落にまた沈着に暮されると自負しつつあったのだ。自惚自惚! こんな事では道を去る事三千里。まず明日からは心を入れ換えて勉強専門の事。こう決心して寝てしまう。・・・<夏目漱石「倫敦消息」青空文庫>
  16. ・・・と、吉里の声は存外沈着いていた。 平田は驚くほど蒼白た顔をして、「遅くなッた、遅くなッた」と、独語のように言ッて、忙がしそうに歩き出した。足には上草履を忘れていた。「平田さん、お草履を召していらッしゃい」と、お梅は戻ッて上草履を持ッ・・・<広津柳浪「今戸心中」青空文庫>
  17. ・・・実現の方法、その可能の発見のためには、沈着な現実の観察と洞察とがいるが、それはやっぱり目の先三寸の態度では不可能なのである。 例えばこの頃の私たちの生活は、木炭のことについても、さまざまの新しい経験をしつつある。昔流にいえば、まだ一家の・・・<宮本百合子「新しい船出」青空文庫>
  18. ・・・――もがき始めたので、はっとなって、とりのぼせたというのならわかるけれども、だんだん黒くなったと見ているのはどうもあまり沈着なんです。そういう心理もわかりません。 それから私いま松岡さんのおっしゃったことで、女の人の具体的な感じかたを非・・・<宮本百合子「浦和充子の事件に関して」青空文庫>
  19. ・・・スーザン自身は、しかし、芸術というものの永い行く手を感じている本能から目前の成功にたいしては沈着で、ジョーゼフ・ハートが彼女の作品の二つをメトロポリタン美術館に入れたいと申出たのも、作品の本質が一つ一つきりはなせないものだということと、まだ・・・<宮本百合子「『この心の誇り』」青空文庫>
  20. ・・・ 私たちの耳目が満州・支那に向けられ、又ポーランドに向けられている今日の生活感情は、破壊と建設と葛藤との世界的な規模のなかで、沈着にその落着かなさに当面し、自分たちの結婚をもただ数の上での一単位としてばかり見ず、明日に向ってよりましな社・・・<宮本百合子「これから結婚する人の心持」青空文庫>
  21. ・・・ 日本が世界歴史のこの多岐な頁をしのいでゆく永年に亙っての実力のために、日本人はこれまでの誇りとして自認している勇気を更に多様な沈着な粘りつよく周密なものとしての面に発揮してゆかなければならないでしょうし、社会事情の複雑さについて却って・・・<宮本百合子「歳々是好年」青空文庫>
  22. ・・・重畳する波瀾をとおして、もし私たちが女としてただ一つの善意さえ現実に成り出させようと願うなら、いつの時代よりも世紀の紛乱におどろきひるまない判断と、沈着な意志とが求められていることは、明かではないだろうか。 こうして私たちは少しずつ少し・・・<宮本百合子「時代と人々」青空文庫>
  23. ・・・終極における愛とは、妻の愛にしろ、母の愛にしろ、波瀾にめげず、社会と自分との裡にあるより人間的な可能性を見きわめ、その実現のためにこの世を凌いでゆける沈着、快活な勇気と精励とを愛する者の心に湧き起す泉の様なものでなければならないのではあるま・・・<宮本百合子「ジャンの物語」青空文庫>
  24. ・・・作家は、私というものを改めてつかまえなおして、その門から今日の歴史の複雑多様な波流の中へ、沈着剛毅に現われ出なければならないのではなかろうか。高速度カメラが夢中で疾走する人体の腿の筋肉をも見せる力をもっているように、こうして動きつつ、動かし・・・<宮本百合子「人生の共感」青空文庫>
  25. ・・・戦争が世界的な規模になって来ている今、若い世代は次第に沈着にめいめいの運命を担って最善をそこにつくしてゆく健気な心になっている。友情もそれらの波瀾を互の人生的なものとして凌いで行こうとするその雄々しさと思いやりとで結ばれて行くように変化しつ・・・<宮本百合子「生活者としての成長」青空文庫>
  26. ・・・ 永年あまりおさえつけられて来たために日本の人の感情にはまだまだ沈着で粘りづよいはずみというものが不足している。はっきりと自分たちの求めているものを見きわめて、その目的を実現させるためには決してへこむことない忍耐づよさで、よいバネのよう・・・<宮本百合子「正義の花の環」青空文庫>
  27. ・・・ゾシチェンコは中央アジアのどこかに避難していて、羊の焙肉をたべていて、やせもしなかった体と、脂肪の沈着した脳髄とをもって、やつれはて、しかし元気は旺盛で、笑いを求めているレーニングラードに帰ってきた。そして自分の店をひろげはじめた。 ソ・・・<宮本百合子「政治と作家の現実」青空文庫>
  28. ・・・らつくられた者であると同時に歴史をつくりつつあるものであるという現実の価値をはっきりわがものとして感じとったとき、小さい一つの行動も深く大きいその自覚に支えられているとき、私たちは本当の勇気と堅忍との沈着で透明な喜悦を心に感じるのだと思う。・・・<宮本百合子「世代の価値」青空文庫>
  29. ・・・そのためには自然欠くことの出来ない落付いた理性の判断と、柔軟溌溂な独創性、沈着な行動性。それ等のものが、知性と云われるもののなかにみんな溶けこんでいて、事にのぞみ、場合に応じ、本人にとっては何か直感的な判断の感じ、或はどう考えてもそうするの・・・<宮本百合子「知性の開眼」青空文庫>
  30. ・・・宇平を始、細川家から暇を取って帰っていた姉のりよが喜は譬えようがない。沈着で口数をきかぬ、筋骨逞しい叔父を見たばかりで、姉も弟も安堵の思をしたのである。「まだこっちではお許は出んかい」と、九郎右衛門は宇平に問うた。「はい。まだなんの・・・<森鴎外「護持院原の敵討」青空文庫>