つい‐おく【追憶】例文一覧 30件

  1. ・・・二人はそれから行燈を囲んで、夜もすがら左近や加納親子の追憶をさまざま語り合った。が、彼等の菩提を弔っている兵衛の心を酌む事なぞは、二人とも全然忘却していた。 平太郎の命日は、一日毎に近づいて来た。二人は妬刃を合せながら、心静にその日を待・・・<芥川竜之介「或敵打の話」青空文庫>
  2. ・・・常子は茶の間の長椅子にぼんやり追憶に沈んでいた。彼女の唇はもう今では永遠の微笑を浮かべていない。彼女の頬もいつの間にかすっかり肉を失っている。彼女は失踪した夫のことだの、売り払ってしまったダブル・ベッドのことだの、南京虫のことだのを考えつづ・・・<芥川竜之介「馬の脚」青空文庫>
  3. ・・・まったく、自分の住んでいる世界から遠ざかって、なつかしい思慕と追憶との国にはいるような心もちがした。この心もちのために、この慰安と寂寥とを味わいうるがために、自分は何よりも大川の水を愛するのである。 銀灰色の靄と青い油のような川の水と、・・・<芥川竜之介「大川の水」青空文庫>
  4. ・・・こんな追憶にふけっていた僕は思わず声をあげようとしました。それはいつの間にはいってきたか、バッグという漁夫の河童が一匹、僕の前にたたずみながら、何度も頭を下げていたからです。僕は心をとり直した後、――泣いたか笑ったかも覚えていません。が、と・・・<芥川竜之介「河童」青空文庫>
  5. ・・・ オルガンティノは寂しそうに、砂の赤い小径を歩きながら、ぼんやり追憶に耽っていた。羅馬の大本山、リスポアの港、羅面琴の音、巴旦杏の味、「御主、わがアニマの鏡」の歌――そう云う思い出はいつのまにか、この紅毛の沙門の心へ、懐郷の悲しみを運ん・・・<芥川竜之介「神神の微笑」青空文庫>
  6. ・・・ 希望を持てないものが、どうして追憶を慈しむことができよう。未来に今朝のような明るさを覚えたことが近頃の自分にあるだろうか。そして今朝の思いつきもなんのことはない、ロシアの貴族のように(午後二時頃の朝餐が生活の習慣になっていたということ・・・<梶井基次郎「冬の日」青空文庫>
  7. ・・・ それにもまして美しい、私の感嘆してやまない消息は新尼御前への返書として、故郷の父母の追憶を述べた文字である。「海苔一ふくろ送り給ひ畢んぬ。……峰に上りてわかめや生ひたると見候へば、さにてはなくて蕨のみ並び立ちたり。谷に下りて、あま・・・<倉田百三「学生と先哲」青空文庫>
  8. ・・・悲しい追憶の情は、其時、自分の胸を突いて湧き上って来た。自分も矢張その男と同じように、饑と疲労とで慄えたことを思出した。目的もなく彷徨い歩いたことを思出した。恥を忘れて人の家の門に立った時は、思わず涙が頬をつたって流れたことを思出した。・・・<島崎藤村「朝飯」青空文庫>
  9. ・・・ それゆえ、これから私が、この選集の全巻の解説をするに当っても、その個々の作品にまつわる私自身の追憶、或いは、井伏さんがその作品を製作していらっしゃるところに偶然私がお伺いして、その折の井伏さんの情景など記すにとどめるつもりであって、そ・・・<太宰治「『井伏鱒二選集』後記」青空文庫>
  10. ・・・(さきに述べた誘因のためにのみ情死を図ったのではなしに、そのほかのくさぐさの事情がいりくんでいたことをお知らせしたくて、私は、以下、その夜の追憶を三枚にまとめて書きしるしたのであるが、しのびがたき困難に逢着し、いまはそっくり削除した。読者、・・・<太宰治「狂言の神」青空文庫>
  11. ・・・むかしの佳き人たちの恋物語、あるいは、とくべつに楽しかった御旅行の追憶、さては、先生御自身のきよらかなるロマンス、等々、病床の高橋君に書き送る形式にて、四枚、月末までにおねがい申しあげます。大阪サロン編輯部、春田一男。太宰治様。」「君の・・・<太宰治「虚構の春」青空文庫>
  12. ・・・ スワは追憶からさめて、不審げに眼をぱちぱちさせた。滝がささやくのである。八郎やあ、三郎やあ、八郎やあ。 父親が絶壁の紅い蔦の葉を掻きわけながら出て来た。「スワ、なんぼ売れた」 スワは答えなかった。しぶきにぬれてきらきら光っ・・・<太宰治「魚服記」青空文庫>
  13.  酒の追憶とは言っても、酒が追憶するという意味ではない。酒についての追憶、もしくは、酒についての追憶ならびに、その追憶を中心にしたもろもろの過去の私の生活形態についての追憶、とでもいったような意味なのであるが、それでは、題名・・・<太宰治「酒の追憶」青空文庫>
  14. ・・・けれど悲嘆や、追憶や、空想や、そんなものはどうでもよい。疼痛、疼痛、その絶大な力と戦わねばならぬ。 潮のように押し寄せる。暴風のように荒れわたる。脚を固い板の上に立てて倒して、体を右に左にもがいた。「苦しい……」と思わず知らず叫んだ。・・・<田山花袋「一兵卒」青空文庫>
  15. ・・・そのなつかしさの中にはおそらく自分の子供の時分のこうした体験の追憶が無意識に活動していたものと思われる。またことしの初夏には松坂屋の展覧会で昔の手織り縞のコレクションを見て同じようななつかしさを感じた。もしできれば次に出版するはずの随筆集の・・・<寺田寅彦「糸車」青空文庫>
  16. ・・・三銭切手二枚か三枚貼った恐ろしく重い分厚の手紙を読んでみると、それには夏目先生の幼少な頃の追憶が実に詳しく事細かに書き連ねてあるのであった。それによると、S先生は子供の頃夏目先生の近所に住まっていていわゆるいたずら仲間であったらしく、その当・・・<寺田寅彦「埋もれた漱石伝記資料」青空文庫>
  17. ・・・単に「追憶」とでもすべきであろう。 自分の学生時代と今とでは、第一時代が変っている。その上に自分の通って来た道は自分勝手の道であって、他人にすすめるような道とも思われない。しかしともかくも三十年の学究生活の霞を透して顧みた昔の学生生活の・・・<寺田寅彦「科学に志す人へ」青空文庫>
  18.  日常の環境の中であまりにわれわれに近く親しいために、かえってその存在の価値を意識しなかったようなものが、ひとたびその環境を離れ見失った時になって、最も強くわれわれの追憶を刺戟することがしばしばある。それで郷里に居た時には少・・・<寺田寅彦「郷土的味覚」青空文庫>
  19. ・・・ 悼ましい追憶に生きている爺さんの濁ったような目にはまだ興奮の色があった。「まるで活動写真みたようなお話ね。」上さんが、奥の間で、子供を寝かしつけていながら言い出した。「へえ……これア飛んだ長話をしまして……。」やがて爺さんは立・・・<徳田秋声「躯」青空文庫>
  20. ・・・幾年ぶりかで見る道太を懐かしがって、同じ学校友だちで、夭折したその一粒種の子供の写真などを持ってきて、二階に寝ころんでいる道太に見せたりして、道太の家と自分の家の古い姻戚関係などに遡って、懐かしい昔の追憶を繰り返していた。「和田さんの家・・・<徳田秋声「挿話」青空文庫>
  21. ・・・先生は最初感情の動くがままに小説を書いて出版するや否や、忽ち内務省からは風俗壊乱、発売禁止、本屋からは損害賠償の手詰の談判、さて文壇からは引続き歓楽に哀傷に、放蕩に追憶と、身に引受けた看板の瑕に等しき悪名が、今はもっけの幸に、高等遊民不良少・・・<永井荷風「妾宅」青空文庫>
  22. ・・・ わが呱々の声を揚げた礫川の僻地は、わたくしの身に取っては何かにつけてなつかしい追憶の郷である。むかしのままなる姿をなした雪駄直しや鳥さしなどを目撃したのも、是皆金剛寺坂のほとりに在った旧宅の門外であった。雪駄直しは饅頭形の籐笠をかぶり・・・<永井荷風「巷の声」青空文庫>
  23. ・・・ わたくしは我ながら意外なる追憶の情に打たれざるを得ない。両側の窓から呼ぶ声は一歩一歩急しくなって、「旦那、ここまで入らっしゃい。」というもあり、「おぶだけ上ってよ。」というのもある。中には唯笑顔を見せただけで、呼止めたって上る気のない・・・<永井荷風「寺じまの記」青空文庫>
  24. ・・・ 進む時間は一瞬ごとに追憶の甘さを添えて行く。私は都会の北方を限る小石川の丘陵をば一年一年に恋いしく思返す。 十二、三の頃まで私は自分の生れ落ちたこの丘陵を去らなかった。その頃の私には知る由もない何かの事情で、父は小石川の邸宅を売払・・・<永井荷風「伝通院」青空文庫>
  25. ・・・小学校から中学校へかけ、学生時代の僕の過去は、今から考えてみて、僕の生涯の中での最も呪わしく陰鬱な時代であり、まさしく悪夢の追憶だった。 こうした環境の事情からして、僕は益々人嫌いになり、非社交的な人物になってしまった。学校に居る時は、・・・<萩原朔太郎「僕の孤独癖について」青空文庫>
  26. ・・・ 過去の追憶は矢の様に心をかすめて次々にと現われる嬉しい悲しい思い出はいかほどこの世を去りがたくさせる事だろう。 或る苦痛を感じて死の来るべき事を知った心も我々が思う事は出来ない複雑な物哀れなものである。 厳かな死の手に、かすか・・・<宮本百合子「悲しめる心」青空文庫>
  27.  去る四月一日の『大学新聞』に逸見重雄氏が「野呂栄太郎の追憶」という長い文章を発表した。マルクス主義を深く理解している者としての筆致で、野呂栄太郎の伝記が細かに書かれ、最後は野呂栄太郎がスパイに売られて逮捕され、品川署の留置・・・<宮本百合子「信義について」青空文庫>
  28. ・・・例えば、祖母の右の腕は力がなく重い物が持てなかったその訳とか、姑で辛い思いを堪えた追憶だとか。出入りの者などはそれさえ知るまい。ただ、丹精な、いつも仕事をしていた御隠居という印象が、大した情も伴わずあるだけなのだ。 二日目の通夜が、徐々・・・<宮本百合子「祖母のために」青空文庫>
  29. ・・・歴史、民衆というもの、新社会というものに対する心持の内部的組立てが変ってしまい、日常の感動が新鮮な脈うちで彼の正直な、老いても猶純な血液を鼓動させる裡で、ゴーリキイはソレント生活の気分の中で、考照し、追憶したロシア民衆を書いていたそれをその・・・<宮本百合子「長篇作家としてのマクシム・ゴーリキイ」青空文庫>
  30. 『青丘雑記』は安倍能成氏が最近六年間に書いた随筆の集である。朝鮮、満州、シナの風物記と、数人の故人の追憶記及び友人への消息とから成っている。今これをまとめて読んでみると、まず第一に著者の文章の円熟に打たれる。文章の極致は、透明無色なガラ・・・<和辻哲郎「『青丘雑記』を読む」青空文庫>