てんしょう〔テンシヤウ〕【天正】例文一覧 8件

  1. ・・・ここの町よりただ荒川一条を隔てたる鉢形村といえるは、むかしの鉢形の城のありたるところにて、城は天正の頃、北条氏政の弟安房守氏邦の守りたるところなれば、このあたりはその頃より繁昌したりと見ゆ。 寄居を出離れて行くこと少時にして、水の流るる・・・<幸田露伴「知々夫紀行」青空文庫>
  2. ・・・後に至って、天正の頃呂宋に往来して呂宋助左衛門と云われ、巨富を擁して、美邸を造り、其死後に大安寺となしたる者の如きも亦是れ納屋衆であった。永禄年中三好家の堺を領せる時は、三十六人衆と称し、能登屋臙脂屋が其首であった。信長に至っては自家集権を・・・<幸田露伴「雪たたき」青空文庫>
  3. ・・・くりくり坊主の桃川如燕が張り扇で元亀天正の武将の勇姿をたたき出している間に、手ぬぐい浴衣に三尺帯の遊び人が肱枕で寝そべって、小さな桶形の容器の中から鮓をつまんでいたりした。西裏通りへんの別の寄席へも行った。伊藤痴遊であったかと思う、若いのに・・・<寺田寅彦「銀座アルプス」青空文庫>
  4. ・・・窓際の硝子蓋の裡に天正十五年の禁教令出島和蘭屋敷の絵巻物、対支貿易に使用された信牌、航海図、切支丹ころびに関する書類、有名なフェートン号の航海日誌、ミッション・プレス等。左の硝子箱に、シーボルト着用の金モウル附礼服が一着飾ってある。小さい陶・・・<宮本百合子「長崎の印象」青空文庫>
  5. ・・・親戚朋友がよろこびを言いに来ると、又七郎は笑って、「元亀天正のころは、城攻め野合せが朝夕の飯同様であった、阿部一族討取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子じゃ」と言った。二年立って、正保元年の夏、又七郎は創が癒えて光尚に拝謁した。光尚は鉄砲十挺・・・<森鴎外「阿部一族」青空文庫>
  6. ・・・さてその縁故をもって赤松左兵衛督殿に仕え、天正九年千石を給わり候。十三年四月赤松殿阿波国を併せ領せられ候に及びて、景一は三百石を加増せられ、阿波郡代となり、同国渭津に住居いたし、慶長の初まで勤続いたし候。慶長五年七月赤松殿石田三成に荷担いた・・・<森鴎外「興津弥五右衛門の遺書」青空文庫>
  7. ・・・あれは天正十一年に浜松を逐電した時二十三歳であったから、今年は四十七になっておる。太い奴、ようも朝鮮人になりすましおった。あれは佐橋甚五郎じゃぞ」 一座は互いに目を合わせたが、今度はしばらくの間誰一人ことばを出すものがなかった。本多は何・・・<森鴎外「佐橋甚五郎」青空文庫>
  8.  京都の高瀬川は、五条から南は天正十五年に、二条から五条までは慶長十七年に、角倉了以が掘ったものだそうである。そこを通う舟は曳舟である。元来たかせは舟の名で、その舟の通う川を高瀬川と言うのだから、同名の川は諸国にある。しかし・・・<森鴎外「高瀬舟縁起」青空文庫>