・・・班女といい、業平という、武蔵野の昔は知らず、遠くは多くの江戸浄瑠璃作者、近くは河竹黙阿弥翁が、浅草寺の鐘の音とともに、その殺し場のシュチンムングを、最も力強く表わすために、しばしば、その世話物の中に用いたものは、実にこの大川のさびしい水の響・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・父は蒲団の左角にひきつけてある懐中道具の中から、重そうな金時計を取りあげて、眼を細めながら遠くに離して時間を読もうとした。 突然事務所の方で弾条のゆるんだらしい柱時計が十時を打った。彼も自分の時計を帯の間に探ったが十時半になっていた。・・・ 有島武郎 「親子」
・・・フレンチは気の遠くなるのを覚えた。髪の毛の焦げるような臭と、今一つ何だか分からない臭とがする。体が顫え罷んだ。「待て。」 白い姿は動かない。黒い上衣を着た医者が死人に近づいてその体の上にかぶさるようになって何やらする。「おしまい・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・空想文学に対する倦厭の情と、実生活から獲た多少の経験とは、やがて私しにもその新らしい運動の精神を享入れることを得しめた。遠くから眺めていると、自分の脱けだしてきた家に火事が起って、みるみる燃え上がるのを、暗い山の上から瞰下すような心持があっ・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ さて心がら鬼のごとき目をみひらくと、余り強く面を圧していた、ためであろう、襖一重の座敷で、二人ばかりの女中と言葉を交わす夫人の声が、遠く聞えて、遥に且つ幽に、しかも細く、耳の端について、震えるよう。 それも心細く、その言う処を確め・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・「どうでしょう、雨になりはしますまいか、遠くへのりだしてから降られちゃ、たいへんですからな」といえば、「ハイ……雨になるようなことはなかろうと申しておりますが」という。予は一種の力に引きおこされるような思いに二階をおりる。・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・さッと言っては押し寄せ、すッと静かに引きさがる浪の音が遠く聴えた。それに耳を傾けると、そのさッと言ってしばらく聴えなくなる間に、僕は何だかたましいを奪われて行くような気がした。それがそのまま吉弥の胸ではないかと思った。 こんなくだらない・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・五 神楽坂路考 これほどの才人であったが、笑名は商売に忙がしかった乎、但しは註文が難かしかった乎して、縁が遠くてイツまでも独身で暮していた。 その頃牛込の神楽坂に榎本という町医があった。毎日門前に商人が店を出したというほ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・定木で引いた線のような軌道がずっと遠くまで光って走っていて、その先は地平線のあたりで、一つになって見える。左の方の、黄いろみ掛かった畑を隔てて村が見える。停車場には、その村の名が付いているのである。右の方には砂地に草の生えた原が、眠たそうに・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
一 さよ子は毎日、晩方になりますと、二階の欄干によりかかって、外の景色をながめることが好きでありました。目のさめるような青葉に、風が当たって、海色をした空に星の光が見えてくると、遠く町の燈火が、乳色のもやのうちから、ちらちらとひ・・・ 小川未明 「青い時計台」
出典:青空文庫