なに‐ひとつ【何一つ】例文一覧 30件

  1. ・・・彼の周囲にあるものは、客も、給仕も、煽風機も、何一つ目まぐるしく動いていないものはない。が、ただ、彼の視線だけは、帳場机の後の女の顔へ、さっきからじっと注がれている。 女はまだ見た所、二十を越えてもいないらしい。それが壁へ貼った鏡を後に・・・<芥川竜之介「影」青空文庫>
  2. ・・・が、その騒ぎがどのくらいつづいたか、その間にどんな事件がどんな順序で起ったか、こう云う点になると、ほとんど、何一つはっきりしない。とにかくその間中何小二は自分にまるで意味を成さない事を、気違いのような大声で喚きながら、無暗に軍刀をふりまわし・・・<芥川竜之介「首が落ちた話」青空文庫>
  3. ・・・ ややしばらくしてから父はきわめて落ち着いた物腰でさとすように、「それほど父に向かって理屈が言いたければ、立派に一人前の仕事をして、立派に一人前の生活ができたうえで言うがいい。何一つようし得ないで物を言ってみたところが、それは得手勝・・・<有島武郎「親子」青空文庫>
  4. ・・・そして始終齷齪しながら何一つ自分を「満足」に近づけるような仕事をしていなかった。何事も独りで噛みしめてみる私の性質として、表面には十人並みな生活を生活していながら、私の心はややともすると突き上げて来る不安にいらいらさせられた。ある時は結婚を・・・<有島武郎「小さき者へ」青空文庫>
  5. ・・・二坪にも足らない小池のまわり、七度も八度も提灯を照らし回って、くまなく見回したけれども、下駄も浮いていず、そのほか亡き人の物らしいもの何一つ見当たらない。ここに浮いていたというあたりは、水草の藻が少しく乱れているばかり、ただ一つ動かぬ静かな・・・<伊藤左千夫「奈々子」青空文庫>
  6. ・・・私は、人の命のはかなさ、書物の持つ生命のはかなさを考えるだけで、何一つ、所有欲は起らないのであります。 たゞ漢詩は、和本の木版摺で読まないと、どういうものか、あの神韻漂渺たる感が浮んでまいりません。・・・<小川未明「書を愛して書を持たず」青空文庫>
  7. ・・・どうせ今まで何一つ立派なこともしてこなかった体、死んでお詫びしたくとも、やはり死ぬまで一眼お眼に掛りたく……。最後の文句を口実に、自嘲しながら書いた。さっそくお君が飛んでくると思っていたのに、速達で返事が来た。裏書きが毛利君となっており、野・・・<織田作之助「雨」青空文庫>
  8. ・・・ だから、仕事以外のことは何一つ考えようとしないし、また仕事に関係のないことは何一つしたがらない。そういう点になると、われながら呆れるくらい物ぐさである。 例えば冠婚葬祭の義理は平気で欠かしてしまう。身内の者が危篤だという電報が来て・・・<織田作之助「鬼」青空文庫>
  9. ・・・ 何一つ道具らしい道具の無い殺風景な室の中をじろ/\気味悪るく視廻しながら、三百は斯う呶鳴り続けた。彼は、「まあ/\、それでは十日の晩には屹度引払うことにしますから」と、相手の呶鳴るのを抑える為め手を振って繰返すほかなかった。「……・・・<葛西善蔵「子をつれて」青空文庫>
  10. ・・・装飾品といって何一つない部屋の、昼もつけ放しの電灯のみが、侘しく眺められた。 永い間自分は用心して、子を造るまいと思ってきたのに――自然には敵わないなあ!――ちょうど一年前「蠢くもの」という題でおせいとの醜い啀み合いを書いたが、その・・・<葛西善蔵「死児を産む」青空文庫>
  11. ・・・所の人の話だと言って、そのお婆さんの死んだあとは例の親爺さんがお婆さんに代わって娘の面倒をみてやっていること、それがどんな工合にいっているのか知らないが、その親爺さんが近所へ来ての話に「死んだ婆さんは何一つ役に立たん婆さんやったが、ようまあ・・・<梶井基次郎「のんきな患者」青空文庫>
  12. ・・・そして姉も弟も初めのうちは小学校に出していたのが、二人とも何一つ学び得ず、いくら教師が骨を折ってもむだで、到底ほかの生徒といっしょに教えることはできず、いたずらに他の腕白生徒の嘲弄の道具になるばかりですから、かえって気の毒に思って退学をさし・・・<国木田独歩「春の鳥」青空文庫>
  13. ・・・ズックの袋も、破れ靴も、夏の帽子も何一つ残っていなかった。「くそッ! 畜生! 百円がところ品物を持ち逃げしやがった!」おやじは口をとがらしていた。 呉清輝と田川とはおやじが扉の外に見えなくなると、吹きだすようにヒヒヒヒと笑いだした。・・・<黒島伝治「国境」青空文庫>
  14. ・・・私のからだにあるもので、何一つその痕跡をとどめないものはない。髪はめっきり白くなり、すわり胼胝は豆のように堅く、腰は腐ってしまいそうに重かった。朝寝の枕もとに煙草盆を引きよせて、寝そべりながら一服やるような癖もついた。私の姉がそれをやった時・・・<島崎藤村「嵐」青空文庫>
  15. ・・・ 婆さんは不思議そうに、「奥様の御召物で御座いますか。何一つ御残し遊ばした物は御座いません。何から何まで御生家の方へ御送りしたんですもの……何物も置かない方が好いなんと仰って……そりゃ、旦那様、御寝衣まで後で私が御洗濯しまして、御蒲・・・<島崎藤村「刺繍」青空文庫>
  16. ・・・「そんなことはかまわないんですけどね、あたしこちらへまいってから、いつも鬱いでばかりいて、何一つろくにお手伝いしたこともないんでしょう」 自分は立膝をして、物尺を持って針山の針をこつこつ叩いて、順々に少しずつ引っこませていたが、ふと・・・<鈴木三重吉「千鳥」青空文庫>
  17. ・・・それがりっぱな王子だと分ったので、おむこさんとして何一つ申し分がありません。王女は大よろこびで夜があけるとすぐに王さまのところへいって、ゆうべのことをのこらずお話しました。 すると王さまは、たった一人の王女を、しらない人にくれるのがおし・・・<鈴木三重吉「ぶくぶく長々火の目小僧」青空文庫>
  18. ・・・わたしの食べ物も着物も癖も何もかもみなお前さんに貰ったので、わたしの方からお前さんに遣ったものといっては何一つないわ。そうして見ると、わたし盗坊ね。お前さんは目が覚めて見ると、わたしに何もかも取られてしまっているのだわ。それをわたしは取って・・・<著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外「一人舞台」青空文庫>
  19. ・・・ その日は、クリスマスの、前夜祭とかいうのに当っていたようで、そのせいか、お客が絶えること無く、次々と参りまして、私は朝からほとんど何一つ戴いておらなかったのでございますが、胸に思いがいっぱい籠っているためか、おかみさんから何かおあがり・・・<太宰治「ヴィヨンの妻」青空文庫>
  20. 「戦争が終ったら、こんどはまた急に何々主義だの、何々主義だの、あさましく騒ぎまわって、演説なんかしているけれども、私は何一つ信用できない気持です。主義も、思想も、へったくれも要らない。男は嘘をつく事をやめて、女は慾を捨てたら・・・<太宰治「嘘」青空文庫>
  21. ・・・崇拝者に取り巻かれていて、望みなら何一つわないことはない。余り結構過ぎると云っても好い位である。 ドリスは可哀らしい情婦としてはこの上のない女である。不機嫌な時がない。反抗しない。それに好い女と云う意味から云えば、どの女だってドリスより・・・<著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外「世界漫遊」青空文庫>
  22. ・・・しかしこの概念的記述的なるものの連続の中には詩もなければ音楽もなく、何一つ生活の内面に立ち入ったリアルな生きた実相をつかまえてわれわれに教えてくれるものはないようである。つまり現代の映画の標準から見ればあまりに内容に乏しい恨みがあるのである・・・<寺田寅彦「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」青空文庫>
  23. ・・・まだ病気にならぬ頃、わたくしは同級の友達と連立って、神保町の角にあった中西屋という書店に行き、それらの雑誌を買った事だけは覚えているが、記事については何一つ記憶しているものはない。中西屋の店先にはその頃武蔵屋から発行した近松の浄瑠璃、西鶴の・・・<永井荷風「十六、七のころ」青空文庫>
  24. ・・・ が、鋸が、確かに骨を引いている響きが、何一つ物音のない、かすかな息の響きさえ聞こえそうな寂寥を、鈍くつんざいていた。 安岡は、耳だけになっていた。 プツッ! と、鋸の刃が何か柔らかいものにぶっつかる音がした。腐屍の臭いが、安岡・・・<葉山嘉樹「死屍を食う男」青空文庫>
  25. ・・・ 一本腕は何一つ分けてやろうともせずに、口の中の物をゆっくり丁寧に噬んでいる。 爺いさんは穹窿の下を、二三歩出口まで歩いて行って、じっと外を見ている。雪は絶間なく渦を巻いて地の上と水の上とに落ちる。その落ちるのが余り密なので、遠い所・・・<著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外「橋の下」青空文庫>
  26. ・・・こっちは何一つ向うの為に悪いようなことをしないんだ。それをこんなことをして、よこす。もうだまってはいられない。何かし返ししてやろう。」一疋の若い梟が高く云いました。すぐ隣りのが答えました。「火をつけようじゃないか。今度屑焼きのある晩に燃・・・<宮沢賢治「二十六夜」青空文庫>
  27. ・・・場合によっては金もやったが、沢や婆は、ちゃんと金の貰えるようなことは何一つ出来なかった。村では、子供でも養蚕の手伝いをした。彼女は、「私しゃ、気味がわるうござんしてね、そんな虫、大嫌さ」と、東京弁で断った。縫物も出来なかった。五月に・・・<宮本百合子「秋の反射」青空文庫>
  28. ・・・ 長十郎はまだ弱輩で何一つきわだった功績もなかったが、忠利は始終目をかけて側近く使っていた。酒が好きで、別人なら無礼のお咎めもありそうな失錯をしたことがあるのに、忠利は「あれは長十郎がしたのではない、酒がしたのじゃ」と言って笑っていた。・・・<森鴎外「阿部一族」青空文庫>
  29. ・・・うちかて株内や云うたてはっきりしたことって何一つないのやし、組が引取らんならんのや。なアそうやろう? その間、わし処に安次を置いとくわ。」「そんねにうまい工合にいくやろか?」「まア事は何でもあたってみよや。組長さんに相談してみよにさ・・・<横光利一「南北」青空文庫>
  30. ・・・しようと思う仕事はまだ何一つできていない。昇ろうと思う道はまだやっと昇り始めたばかりだ。今死んでは今まで生きたことがまるきり無意味になる。これはとてもたまらない。――こう思って私は「死」の来ようの早かったことを呪うだろう。さらにまた自分の愛・・・<和辻哲郎「停車場で感じたこと」青空文庫>