・・・おそらくあの作の持っている罪業的な暗い感じに、彼はある親味と共鳴とを感じたのでもあろうが、それがひどく欠陥のある稚拙な彼の文章から、自分にそうした曖昧な印象を与えたものであろうと思われたが、それにしても「迂濶に物は書けない……」自分は一種の・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・という話に進めかかっていた。そして吉田が自分に用事のあることを言ってそれを断わると、では吉田の住んでいる町をどこだと訊いて来るのだった。吉田はそれに対して「だいぶ南の方だ」と曖昧に言って、それを相手に教える意志のないことをその女にわからそう・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・私はその返事のバスに人ごとながら聴耳をたてたが、相不変曖昧な言葉が同じように鈍い調子で響くばかりで、やがて女はあきらめたようすでいなくなってしまった。 私は静かな眠った港を前にしながら転変に富んだその夜を回想していた。三里はとっくに歩い・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・と思いの外、少し唇を尖らして、くっくっと吹き出しそうになった。が、すぐそれを呑み込んで、「ううむ?」と曖昧に塩入れ場の前に六尺の天秤棒や、丸太棒やを六七本立てかけてある方に顎をちょいと突き出して搾り場を通り抜けて行ってしまった。 京・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
近時世界の耳目を聳動せる仏国ドレフューの大疑獄は軍政が社会人心を腐敗せしむる較著なる例証也。 見よ其裁判の曖昧なる其処分の乱暴なる、其間に起れる流説の奇怪にして醜悪なる、世人をして殆ど仏国の陸軍部内は唯だ悪人と痴漢とを・・・ 幸徳秋水 「ドレフュー大疑獄とエミール・ゾーラ」
・・・とお初は曖昧な返事ばかりした。 袖子は物も言わずに寝苦しがっていた。そこへ父さんが心配して覗きに来る度に、しまいにはお初の方でも隠しきれなかった。「旦那さん、袖子さんのは病気ではありません。」 それを聞くと、父さんは半信半疑・・・ 島崎藤村 「伸び支度」
・・・もっともわざと焦点をはずした場合のように全部が均等に調和的にぼやけたのならば別であるが、明確なものと曖昧なものとが雑然と不調和に同居しているところに破綻があり不快がある。このような失敗はほとんど日本の時代物の映画に限って現われる特異現象であ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・という言葉の内容に関する定義の曖昧不鮮明から生まれることはもちろんである。 論理の連鎖のただ一つの輪をも取り失わないように、また混乱の中に部分と全体との関係を見失わないようにするためには、正確でかつ緻密な頭脳を要する。紛糾した可能性の岐・・・ 寺田寅彦 「科学者とあたま」
・・・もきわめて明確に限定されていて少しの曖昧をも許さない。それで、一つの命題を与えさえすれば、その次に来るべき「文章」はおのずからきまってしまうのである。こういう意味で、数学というものは一種の「自働作文器械」とでも言われないことはないのである。・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・っておって、日に何遍も繰返しているけれども、はたして開化とはどんなものだと煎じつめて聞き糺されて見ると、今まで互に了解し得たとばかり考えていた言葉の意味が存外喰違っていたりあるいはもってのほかに漠然と曖昧であったりするのはよく有る事だから私・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
出典:青空文庫