・・・しかし先生はもうそれらをば余儀ない事であると諦めた。こんな事をいって三味線の議論をする事が、已に三味線のためにはこの上もない侮辱なのである。江戸音曲の江戸音曲たる所以は時勢のために見る影なく踏みにじられて行く所にある。時勢と共に進歩して行く・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・知って居るというより諦めて居た。それより猶お女のつれないということが彼には当然のことなのでそれを格別不足に思うということはなくなって居たのである。女房とすら彼は余所目には打ち解けなかった。朝夕顔を見合わす間柄はそんなに追従いうことの出来ない・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・もちろん御聴になる時間ぐらいは損になりますが、そのくらいな損は不運と諦めて辛抱して聴いていただきたい。 昔の道徳と今の道徳と云うものの区別、それからお話をしたいと思いますが――どうも落ちついてやっていられないような気がしてたまらない。そ・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・胃癌の人は死ぬのは諦めさえすれば何でもないと云って美しく死んだ。潰瘍の人はだんだん悪くなった。夜半に眼を覚すと、時々東のはずれで、付添のものが氷を摧く音がした。その音がやむと同時に病人は死んだ。自分は日記に書き込んだ。――「三人のうち二人死・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・ 私とても、言葉の上の皮肉や、自分の行李を放り込む腹癒せ位で、此事件の結末に満足や諦めを得ようとは思っていなかった。 ――一生涯! 一生涯、俺は呪ってやる、たといどんなに此先の俺の生涯が惨めでも、又短かくても、俺は呪ってやる。やっつ・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・「そう諦めててくれりゃア、私も大助かりだ。あいたたた。太股ふッつりのお身替りなざア、ちとありがた過ぎる方だぜ。この上臂突きにされて、ぐりぐりでも極められりゃア、世話アねえ。復讐がこわいから、覚えてるがいい」「だッて、あんまり憎らしい・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・従って女としてのそういう苦痛な生涯のありようから人間的な成長、達観へ到達する道は諦めしかなく、諦めということもそれだから女らしさといわれる観念の定式の中には一つの大切な要素としてあげられて来ているのである。 戦国時代ある大名の夫人が、戦・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・という悲しい諦めの心、或は、当時青野季吉によって鼓舞的に云われていた一つの理論「こんにちプロレタリア作家は、プロレタリア文学の根づよさに安んじて闊達自在の活動をする自信をもつべきである」という考えかたなどについて、作者は、ひとつ、ひとつ、そ・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十一巻)」
・・・そんならと云って、これが自分の運だと諦めているという fataliste らしい思想を持っているのでもない。どうかすると、こんな事は罷めたらどうだろうなどとも思う。それから罷めた先きを考えて見る。今の身の上で、ランプの下で著作をするように、・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ 己は自分の事を末流だと諦めてはいるが、それでも少し侮辱せられたような気がした。そこで会釈をして、その場を退いた。 夕食の時、己がおばさんに、あのエルリングのような男を、冬の七ヶ月間、こんな寂しい家に置くのは、残酷ではないかと云って・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫