・・・若いころの名誉心は飽くことを知らぬものである。そのとしの暑中休暇には、彼は見込みある男としての誇りを肩に示して帰郷した。彼のふるさとは本州の北端の山のなかにあり、彼の家はその地方で名の知られた地主であった。父は無類のおひとよしの癖に悪辣ぶり・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・向うから来る女が口を開く。おれは好色家の感じのような感じで、あの口の中へおれの包みを入れてみたいと思った。巡査が立っている。あの兜を脱がせて、その中へおれの包みを入れたらよかろうと思う。紐をからんでいる手の指が燃えるような心持がする。包みの・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・恰度月見草が一時に開くころである。咲いた月見草の花を取って嗅いでみてもそんな匂いはしない。あるいはこの花の咲く瞬間に放散する匂いではあるまいか。そんなことを話しながら宿のヴェランダで子供らと、こんな処でなければめったにする機会のないような話・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・はもちろんであるが「灰汁桶のしずくやみけりきりぎりす」「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」「鉄砲の遠音に曇る卯月かな」等枚挙すれば限りはない。 すべての雑音はその発音体を暗示すると同時にまたその音の広がる空間を暗示する。不幸にして現在の録・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・とを上野駅で迎える場面は、どうも少し灰汁が強すぎてあまり愉快でない。しかし、マダムもろ子の家の応接間で堅くなっていると前面の食堂の扉がすうと両方に開いて美しく飾られたテーブルが見える、あの部分の「呼吸」が非常によくできている。これは、映画に・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・「鉄砲の遠音に曇る卯月かな」というのがある。同じ鉄砲でもアメリカトーキーのピストルの音とは少しわけがちがう。「里見えそめて午の貝吹く」というのがある。ジャズのラッパとは別の味がある。「灰汁桶のしずくやみけりきりぎりす」などはイディルレの好点・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・人間の飽くことなき欲望がこの可能性の外被を外へ外へと押して行くと、この外被は飴のようにどこまでもどこまでも延長して行くのである。これを押し広げるものが科学者と文学者との中の少数な選ばれたる人々であるかと思われる。 芸術として・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・ 秋は「飽く」や「赤」と関係があるとの説もあるようであるが確証はないらしい。英語の autumn が「集む」と似ているのはおもしろい。これはラテンの autumnus から来たに相違ないが、このラテン語は augeo から来たとの説もあ・・・ 寺田寅彦 「言葉の不思議」
・・・ピナコテークの画堂ではムリロやデュラーやベクリンなどを飽くほど見て来ました。それからドレスデンやらエナへ行って後、ワイマールに二時間ばかりとどまって、ゲーテとシラーの家を見ました。ゲーテが死ぬ前に庭の土を取り寄せて皿へ入れて分析しようとして・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・私はそのときの主婦の灰汁の強過ぎるパリジェンヌぶりに軽い反感を覚えないではいられなかったのであった。 あとで担保に入れてあったガージュを銘々に返していたとき、一本の鉛筆をさし上げて「これはどなたのでしたか」と主婦が尋ねたら、一座の中の二・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
出典:青空文庫