あこうぎし【赤穂義士】
元禄15年12月14日(1703年1月30日)、主君の浅野内匠頭長矩 (あさのたくみのかみながのり) の恥辱をそそぐため、吉良上野介義央 (きらこうずけのすけよしなか) を討った旧赤穂藩士47名のこと。翌年2月4日、幕府の命により切腹、泉岳寺に葬られた。赤穂浪士。四十七士。寺坂吉右衛門が討ち入りの途中から姿を消したので四十六士ともいう。
あこうし【赤穂市】
⇒赤穂
あこうじけん【阿衡事件】
仁和3年(887)、宇多天皇が即位した際、藤原基経を関白とする勅書の中の「よろしく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」の語について、基経が阿衡は位のみで職掌を伴わないとして政務を行わず、ついに天皇が勅書を書き改めた事件。
出典:青空文庫
・・・赤穂の城を退去して以来、二年に近い月日を、如何に彼は焦慮と画策と・・・ 芥川竜之介「或日の大石内蔵助」
・・・もし赤穂浪士をゆるして死をたもうことがなかったならば、彼ら四十七・・・ 幸徳秋水「死刑の前」
・・・若し赤穂義士を許して死を賜うことなかったならば、彼等四十七人は尽・・・ 幸徳秋水「死生」