・・・「ばかに下等になってきたあな、よせよせ」 おはまがいるから、悪口もこのくらいで済んだ。おはまでもいなかったら、なかなかこのくらいの悪口では済まない。省作の悪口を言うとおはまに憎がられる、おはまには悪くおもわれたくないてあいばかりだか・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・一人つまずきぬ。一人あなやと叫びてその手を執りぬ。二人は底知れぬ谷に墜ち失せたり。千秋万古、ついにこの二人がゆくえを知るものなく、まして一人の旅客が情けの光をや。 しゅうど 美わしき菫の種と、やさしき野菊の種と、・・・ 国木田独歩 「詩想」
・・・ あな心地よき火や。いいつつ投げやりし杖を拾いて、これを力に片足を揚げ火の上にかざしぬ。脚絆も足袋も、紺の色あせ、のみならず血色なき小指現われぬ。一声高く竹の裂るる音して、勢いよく燃え上がりし炎は足を焦がさんとす、されど翁は足を引かざり・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・「こいつ鉄砲をかくしとるだろう。」「剣を出せ!」「あなぐらを見せろ!」「畜生! これゃ、また、早く逃げておく方がいいかもしれんて。」近づいて来る叫声を耳にしながら、ウォルコフは考えた。「銃を出せ!」「剣を出せ!」・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・で、紳士たる以上はせめてムダ金の拾万両も棄てて、小町の真筆のあなめあなめの歌、孔子様の讃が金で書いてある顔回の瓢、耶蘇の血が染みている十字架の切れ端などというものを買込んで、どんなものだいと反身になるのもマンザラ悪くはあるまいかも知らぬ。・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・「心配は廃しゃアナ。心配てえものは智慧袋の縮み目の皺だとヨ、何にもなりゃあしねえわ。「だって女の気じゃあいくらわたしが気さくもんでも、食べるもん無し売るもんなしとなるのが眼に見えてちゃあ心配せずにゃあいられないやネ。「ご道理千万・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・その百姓は深い所にはいって、頭の上に六尺も土のある様子はまるで墓のあなの底にでもいるようでした。 あなの中にいて、大空も海も牧場も見ないこんな人こそは、きっと天国に行きたいにちがいないと思いましたから、鳩は木の枝の上で天国の歓喜を鳩らし・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ ここにひとり、わびしい男がいて、毎日毎日あなたの唄で、どんなに救われているかわからない、あなたは、それをご存じない、あなたは私を、私の仕事を、どんなに、けなげに、はげまして呉れたか、私は、しんからお礼を言いたい。そんなことを書き散らし・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・祖母は、あなや、と叫んで私を畳のうえに投げ飛ばした。ころげ落ちながら私は祖母の顔を見つめていた。祖母は下顎をはげしくふるわせ、二度も三度も真白い歯を打ち鳴らした。やがてころりと仰向きに寝ころがった。おおぜいのひとたちは祖母のまわりに駈せ集い・・・ 太宰治 「玩具」
・・・「さては、相当ため込んだね。いやに、りゅうとしてるじゃないか。」「あら、いやだ。」 どうも、声が悪い。高貴性も何も、一ぺんに吹き飛ぶ。「君に、たのみたい事があるのだがね。」「あなたは、ケチで値切ってばかりいるから、……」・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
出典:青空文庫