・・・「私も花をあんなものにくれておくのは惜しいでやすよ。多度でもないけれど、商売の資本まで卸してやったからね」と爺さんは時々その娘のことでこぼしていた。「お爺さんなんざ、もう楽をしても好いんですがね。」 上さんはお茶を汲んで出しなが・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ お初は、何かに追ったてられるように、「あんた、争議団では、また今朝、変な奴らが、沢山何ッかから、来たんだよ………あんな物騒な奴らだものあんた、ほんとうに、命でもとり兼ねないよ……あれ、ホラ、あんな沢山ガヤガヤ云ってるじゃないの、聞・・・ 徳永直 「眼」
・・・母はなぜ用もない、あんな地面を買ったのかと、よく父に話をして居られた事がある。すると父は崖下へ貸長屋でも建てられて、汚い瓦屋根だの、日に干す洗濯物なぞ見せつけられては困る。買占めて空庭にして置けば閑静でよいと云って居られた。父にはどうして、・・・ 永井荷風 「狐」
・・・左右前後の綺羅が頭の中へ反映して、心理学にいわゆる反照聯想を起すためかとも思いますが、全くそうでもないらしいです。あんな場所で周囲の人の顔や様子を見ていると、みんな浮いて見えます。男でも女でもさも得意です。その時ふとこの顔とこの様子から、自・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・あの女が誰のためにあんな目にあったのか知りたいのかい。知りたきゃ教えてやってもいいよ。そりゃ金持ちと云う奴さ。分ったかい」 蛞蝓はそう云って憐れむような眼で私を見た。「どうだい。も一度行かないか」「今行ったが開かなかったのさ」・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・「本統に誰かよこしておくんなさいよ。お梅どんがどッかいるだろうから、来るように言ッておくんなさいよ」と、小万も上の間へ来ながら声をかけたが、お熊はもういないのか返辞がなかッた。「あんないやな奴ッちゃアないよ。新造を何だと思ッてるんだ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・いずれ四文もしないガラス玉か何かだろう。あんな手品に乗って気を揉んだのは、馬鹿だった。」こう云って一本腕はいつもの穴にもぐり込んだ。 爺いさんは鼠色の影のようにその場を立ち去った。そして間もなく雪に全身を包まれて、外の寝所を捜しに往く。・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・儚い自分、はかない制限された頭脳で、よくも己惚れて、あんな断言が出来たものだ、と斯う思うと、賤しいとも浅猿しいとも云いようなく腹が立つ。で、ある時小川町を散歩したと思い給え。すると一軒の絵双紙屋の店前で、ひょッと眼に付いたのは、今の雑誌のビ・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・こうは申しますが、実はあんな夢のような御成功が無くたって、大切なる友よ、わたくしはあなたの事を思わずにはいられませんのでした。御覧なさい。あなたをお呼掛け申しまする、お心安立ての詞を、とうとう紙の上に書いてしまいました。あれを書いてしまいま・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・昔の画家が聖母を乗せる雲をあんな風にえがいたものだ。山の裾には雲の青い影が印せられている。山の影は広い谷間に充ちて、広野の草木の緑に灰色を帯びさせている。山の頂の夕焼は最後の光を見せている。あの広野を女神達が歩いていて、手足の疲れる代りには・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫