・・・勿論彼が背盟の徒のために惜んだのは、単に会話の方向を転じたかったためばかりではない、彼としては、実際彼等の変心を遺憾とも不快とも思っていた。が、彼はそれらの不忠の侍をも、憐みこそすれ、憎いとは思っていない。人情の向背も、世故の転変も、つぶさ・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・同時に又犬養君の作品の如何にも丹念に出来上っているのも偶然ではないと思っている。 芥川竜之介 「犬養君に就いて」
・・・「それがいかんですな。熱はずんずん下りながら、脈搏は反ってふえて来る。――と云うのがこの病の癖なんですから。」「なるほど、そう云うものですかな。こりゃ我々若いものも、伺って置いて好い事ですな。」 お絹の夫は腕組みをした手に、時々・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ところが遺憾ながら、西南戦争当時、官軍を指揮した諸将軍は、これほど周密な思慮を欠いていた。そこで歴史までも『かも知れぬ』を『である』に置き換えてしまったのです。」 愈どうにも口が出せなくなった本間さんは、そこで苦しまぎれに、子供らしい最・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・と言う言葉に衣冠束帯の人物を髣髴していた。しかし我我は同じ言葉に髯の長い西洋人を髣髴している。これはひとり神に限らず、何ごとにも起り得るものと思わなければならぬ。 又 わたしはいつか東洲斎写楽の似顔画を見たことを覚えてい・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・「こら、騒いではいかん。騒ぐではない。」 将軍は陣地を見渡しながら、やや錆のある声を伝えた。「こう云う狭隘な所だから、敬礼も何もせなくとも好い。お前達は何聯隊の白襷隊じゃ?」 田口一等卒は将軍の眼が、彼の顔へじっと注がれるの・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・そしてまた海の中にはいって行きました。如何してもじっとして待っていることが出来ないのです。 妹の頭は幾度も水の中に沈みました。時には沈み切りに沈んだのかと思うほど長く現われて来ませんでした。若者も如何かすると水の上には見えなくなりました・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・見よ、彼らの亡国的感情が、その祖先が一度遭遇した時代閉塞の状態に対する同感と思慕とによって、いかに遺憾なくその美しさを発揮しているかを。 かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の存在を意識しなければなら・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ 自由の空気さえ吸えば、身はたとえ枯野の草に犬のごとく寝るとしても、空長しなえに蒼く高くかぎりなく、自分においていささかの遺憾もないのである。 初めて杖を留めた凾館は、北海の咽喉といわれて、内地の人は函館を見ただけですでに北海道そのもの・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・これによって僕は宗教の感化力がその教義のいかんよりも、布教者の人格いかんに関することの多いという実際を感じ得た。 僕が迷信の深淵に陥っていた時代は、今から想うても慄然とするくらい、心身共にこれがために縛られてしまい、一日一刻として安らか・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
出典:青空文庫