・・・婆さんは意外にも自分の胸へ、自分のナイフを突き立てたまま、血だまりの中に死んでいました。「お婆さんはどうして?」「死んでいます」 妙子は遠藤を見上げながら、美しい眉をひそめました。「私、ちっとも知らなかったわ。お婆さんは遠藤・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ 椅子の上の陳彩は、彼以外の存在に気がつくが早いか、気違いのように椅子から立ち上った。彼の顔には、――血走った眼の中には、凄まじい殺意が閃いていた。が、相手の姿を一目見るとその殺意は見る見る内に、云いようのない恐怖に変って行った。「・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・「なおまた故人の所持したる書籍は遺骸と共に焼き棄て候えども、万一貴下より御貸与の書籍もその中にまじり居り候節は不悪御赦し下され度候。」 これはその葉書の隅に肉筆で書いてある文句だった。僕はこう云う文句を読み、何冊かの本が焔になって立・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・その言葉を聞くと父は意外そうに相手の顔を見た。そして不安の色が、ちらりとその眼を通り過ぎた。 農場内を一とおり見てまわるだけで十分半日はかかった。昼少し過ぎに一同はちょうどいい疲れかげんで事務所に帰りついた。「まずこれなら相当の成績・・・ 有島武郎 「親子」
・・・第四階級者以外の生活と思想とによって育ち上がった私たちは、要するに第四階級以外の人々に対してのみ交渉を持つことができるのだ。ストーヴにあたりながら物をいっているどころではない。全く物などはいっていないのだ」と。 私自身などは物の数にも足・・・ 有島武郎 「宣言一つ」
・・・そうしてそのおのおのの間には、今日すでにその肩書以外にはほとんどまったく共通した点が見いだしがたいのである。むろん同主義者だからといって、かならずしも同じことを書き、同じことを論じなければならぬという理由はない。それならば我々は、白鳥氏対藤・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・帰ってきて私はまず、新らしい運動に同情を持っていない人の意外に多いのを見て驚いた。というよりは、一種の哀傷の念に打たれた。私は退いて考えてみた。しかし私が雪の中から抱いてきた考えは、漠然とした幼稚なものではあったが、間違っているとは思えなか・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ところがその返事は意外にも、「あの小説は京都の日の出から直接に取引をしたものであれば、他に少しも関係はありません」と剣もほろろに挨拶をされて、悄然新聞社の門を出たことがある。 されば僕の作で世の中に出た一番最初のものは「冠弥左衛門」で、・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ 私は思うに、これは多分、この現世以外に、一つの別世界というような物があって、其処には例の魔だの天狗などという奴が居る、が偶々その連中が、吾々人間の出入する道を通った時分に、人間の眼に映ずる。それは恰も、彗星が出るような具合に、往々にし・・・ 泉鏡花 「一寸怪」
・・・それにもかかわらず一度異境に旅寝しては意外に平気で遊んでいる。さらばといって、君に熱烈なある野心があるとも思えない。ときどきの消息に、帰国ののちは山中に閑居するとか、朝鮮で農業をやろうとか、そういうところをみれば、君に妻子を忘れるほどのある・・・ 伊藤左千夫 「去年」
出典:青空文庫