・・・しかし他の友人以外の人たちは、こうした佐々木の挨拶を聴いてどう思ったか、それは私には分らない。何となれば今度の笹川の長編ではモデルとして佐々木は最も苛辣な扱いを受けている。佐々木に言わせれば、笹川の本能性ともいうべき「他の優越に対する反感性・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・ しばらくして私が眼を砂浜の方に転じましたとき、私は砂浜に私以外のもう一人の人を発見しました。それがK君だったのです。しかしその時はK君という人を私はまだ知りませんでした。その晩、それから、はじめて私達は互いに名乗り合ったのですから。・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・「我何処より来り、我何処にか往く、よく言う言葉であるが、矢張りこの問を発せざらんと欲して発せざるを得ない人の心から宗教の泉は流れ出るので、詩でもそうです、だからその以外は悉く遊戯です虚偽です。「もう止しましょう! 無益です、無益です・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・と、往来へ出て月の光を正面に向けた顔は確かにお正である。「お正さん」大友は思わず叫んだ。「大友さんでしょう、」と意外にもお正は平気で傍へ来たので、「貴女は僕が来て居るのを知っていたのですか」と驚いて問うた。「も少し上の方への・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・ 婦人が育児と家庭以外に、金をとる労働をしなければならないというのは、社会の欠陥であって、むしろやむを得ない悲惨事である。婦人を本当に解放するということは、家庭から職業戦線へ解放することではなくて、職業戦線から解放して家庭へ帰らせること・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・むしろそのはなはだ少ないのに意外の感を持つであろう。 かくして「問い」はおのずと書物を選ばしめる。自らの「問い」なくして手当たり次第に読書することは、その割合いに効果乏しく、また批判の基準というものが立ちがたい。 自ら問いを持ち、そ・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・が、聯隊の経理室から出た俸給以外に紙幣が兵卒の手に這入る道がないことが明瞭であるにも拘らず、弱点を持っている自分の上に、長くかゝずらっている憲兵の卑屈さを見下げてやりたい感情を経験せずにはいられなかった。主計には頭が上らないから、兵卒のとこ・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・生田花世氏がここへ来て、あんたはよいところでお死にになったと夫の遺骸に対して云ったと、私が詩碑の傍に立って西の方へ遠く突き出ている新緑の岬や、福部島や、近海航路の汽船が通っている海に見入っていると、丘の畑へ軽子を背負ってあがって行く話ずきら・・・ 黒島伝治 「短命長命」
・・・大西は、意外げに、皮肉に笑った。「わざと、ちょっぴり怪我をしたんじゃないか?」「…………。」 腕を頸に吊らくった相手は腹立たしげに顔をしかめた。「なか/\内地へ帰りとうて仕様がなかったんだからな。」 それにも相手は取り合わな・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 僕と虹吉は、親爺が眠っている傍に持って行って、おふくろの遺骸を、埋めた。秋のことである。太陽は剃刀のようにトマトの畠の上に冴えかえっていた。村の集会所の上にも、向うの、白い製薬会社と、発電所が、晴れきった空の下にくっきりと見られるS町・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
出典:青空文庫