・・・勿論大多数は物理学者以外の人で、中にはずいぶんいかがわしい人も交じっているようである。これが一日ベルリンのフィルハーモニーで公開の弾劾演説をやって無闇な悪口を並べた。中に物理学者と名のつく人も一人居て、これはさすがに直接の人身攻撃はやらない・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ しかしともかくも私はちょっと意外な事に出逢ったような気がしてならなかった。而してこういったような商人がそこらに居るという事が何だかちょっと愉快なことのようにさえ思われたのである。 宅へ帰って昼飯を食いながら、今日のアドヴェンチ・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・親戚の婦人たちが自由自在に泣けるのが不思議な気がした。遺骸を郊外山腹にある先祖代々の墓地に葬った後、なまなましい土饅頭の前に仮の祭壇をしつらえ神官が簡単なのりとをあげた。自分は二歳になる遺児をひざにのせたまま腰をかけてそののりとを聞いていた・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・……王の遺骸はそれから後もさまざまの奇蹟を現わすのであった。 私がこのセント・オラーフの最期の顛末を読んだ日に、偶然にも長女が前日と同じ曲の練習をしていた。そして同じ低音部だけを繰り返し繰り返しさらっていた。その音楽の布いて行く地盤の上・・・ 寺田寅彦 「春寒」
・・・ 領事のほうからは、本国の家族から事後の処置に関する返電の来るまで遺骸をどこかに保管してもらいたいという話があって、結局M教授の計らいでM大学の解剖学教室でそれを預かることになった。 同教室に運ばれた遺骸に防腐の薬液を注射したのは、・・・ 寺田寅彦 「B教授の死」
・・・ 最後の近くなったころ妻がそばへ行って呼ぶと、わずかにはい寄ろうとする努力を見せたが、もう首がぐらぐらしていた。次第に死の迫って来る事を知らせる息づかいは人間の場合に非常によく似ていた。 遺骸は有り合わせのうちでいちばんきれいなチョ・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・それで急いで袋を縦に切り開いて見ると、はたして袋の底に滓のようになった簔虫の遺骸の片々が残っていた。あの肥大な虫の汁気という汁気はことごとく吸い尽くされなめ尽くされて、ただ一つまみの灰殻のようなものしか残っていなかった。ただあの堅い褐色の口・・・ 寺田寅彦 「簔虫と蜘蛛」
・・・すると、意外にもうつむいていた赤っぽい頭髪が、すッとあおのいた。「――よろしく、ご交際、おねがいします」 深水がたもとから煙草をだして点けた。三吉もその火で吸いつけようとするが、手がふるえていて、うまく点かない。点かないながら――ゴ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・しは栄子が遊廓に接近した陋巷に生れ育った事を知り、また廓内の女たちがその周囲のものから一種の尊敬を以て見られていた江戸時代からの古い伝統が、昭和十三、四年のその日までまだ滅びずに残っていた事を確めた。意外の発見である。殆ど思議すべからざる事・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・廊下には上草履の音がさびれ、台の物の遺骸を今室の外へ出している所もある。遥かの三階からは甲走ッた声で、喜助どん喜助どんと床番を呼んでいる。 遊里の光景とその生活とには、浄瑠璃を聴くに異らぬ一種の哀調が漲っていた。この哀調は、小説・・・ 永井荷風 「里の今昔」
出典:青空文庫