長谷川時雨さんの御生涯を思うと、私たちは、やっぱり何よりも女性の多難な一生ということを考えずには居られなくて、最後までその道の上に居られた姿を、深く悼む心持です。 明治の濃い匂りの裡に成長して、大正、昭和と今日までの激・・・ 宮本百合子 「積極な一生」
・・・自分達の航海が無事に終ったにつけても、三等の人たちのその不幸を悼む自然の気持というものはないものだろうか。そのことについて、まるで知らなかったことのようにふれられていない。 船客の中には賀川豊彦氏も交っていて、この宗教家はアメリカなどで・・・ 宮本百合子 「龍田丸の中毒事件」
・・・ 不幸な若死をした自分を悼む涙であり、死なれた周囲に同情する悲しみである。 あれほど魂の安息所のようにも、麗わしい楽園のようにも思われた魅力は跡かたもなく消えて、今、死は明かに拒絶され、追放される。「死ぬのはこわい」という恐怖が・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・ 只何かの時にと持って居る叔父の杖は大変益に立って、滑ろうとする足を踏みしめる毎に、躰の重味で細い杖が折れそうにまで撓むのを、どんなにハラハラして私は見て居たかしれない。 息をはずませながら私は叔父の袂を引っぱって一足一足と踏みしめ・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・倒れれば刀が傷む。壁にも痍が附くかも知れないというのである。 床の間の前には、子供が手習に使うような机が据えてある。その前に毛布が畳んで敷いてある。石田は夏衣袴のままで毛布の上に胡坐を掻いた。そこへ勝手から婆あさんが出て来た。「鳥は・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・「余は胸が痛むのだ」「侍医をお呼びいたしましょうか」「いや、余は暫くお前と一緒に眠れば良い」 ナポレオンはルイザの肩に手をかけた。ルイザはナポレオンの腕から戦慄を噛み殺した力強い痙攣を感じながら、二つの鐶のひきち切れた緞帳の・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・汽車に揺られて、節々が痛む上に、半分寐惚けて、停車場に降りた。ここで降りたのは自分一人である。口不精な役人が二等の待合室に連れて行ってくれた。高い硝子戸の前まで連れて来て置いて役人は行ってしまった。フィンクは肘で扉を押し開けて閾の上に立って・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・たとえ眠られぬ真夜中に、堅い腰掛けの上で痛む肩や背や腰を自分でどうにもできないはかなさのため、幽かな力ない嘆息が彼らの口から洩れるにしても。 私はこんな空想にふけりながら、ぼんやり乳飲み児を見おろしている母親の姿をながめ、甘えるらしく自・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫