・・・ 男はそう私の耳に囁いて、あと、一言も口を利かなかった。 部屋に戻って、案外あの夫婦者はお互い熱心に愛し合っているのではないか、などと考えていると、湯殿から帰って来た二人は口論をやり出した。 襖越しにきくと、どうやら私と女が並ん・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・たが、しかし、純粋小説とは純粋になればなるほど形式が不純になり、複雑になり、構成は何重にも織り重って遠近法は無視され、登場人物と作者の距離は、映画のカメラアングルのように動いて、眼と手は互いに裏切り、一元描写や造形美術的な秩序からますます遠・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・は病気のフランスが生んだ一見病気の文学でありながら、病気の日本が生んだ一見健康な文学よりも、明確に健康である。この作品の作られる一九三八年にはまだエグジスタンシアリスムの提唱はなかったが、しかし、人間を醜怪、偶然と見るサルトルの思想は既にこ・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・自分の作のどういう点がほんとに彼を感動さしたのか――それは一見明瞭のようであって、しかしどこやら捉えどころのない暗い感じだった。おそらくあの作の持っている罪業的な暗い感じに、彼はある親味と共鳴とを感じたのでもあろうが、それがひどく欠陥のある・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・その間も、一言も彼の口から「会費ができたかね?」といったような言葉が出ない。つまり、てんで、私の出席するしないが、彼には問題ではないらしい。 いったい今度の会は、最初から出版記念とか何とかいった文壇的なものにするということが主意ではなか・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・彼が今日にも出てゆくと言っても彼女が一言の不平も唱えないことはわかりきったことであった。それでは何故出てゆかないのか。生島はその年の春ある大学を出てまだ就職する口がなく、国へは奔走中と言ってその日その日をまったく無気力な倦怠で送っている人間・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・骨も埋もるるばかり肥え太りて、角袖着せたる布袋をそのまま、笑ましげに障子の中へ振り向きしが、話しかくる一言の末に身を反らせて打ち笑いぬ。中なる人の影は見えず。 われを嘲けるごとく辰弥は椅子を離れ、庭に下り立ちてそのまま東の川原に出でぬ。・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・それもたって勧めるではなく、彼の癖として少し顔を赤らめて、もじもじして、丁寧に一言「行きませんか」と言ったのです。 私はいやと言うことができないどころでなく、うれしいような気がして、すぐ同意しました。 雪がちらつく晩でした。 木・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・此処へ来て、何処から現われたのか少も気がつかなかったので、恰も地の底から湧出たかのように思われ、自分は驚いて能く見ると年輩は三十ばかり、面長の鼻の高い男、背はすらりとしたやさがた、衣装といい品といい、一見して別荘に来て居る人か、それとも旅宿・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・ 最後に一言付すべきことは、生の問いをもってする倫理学の研究は実は倫理学によって終局しないものである。それは善・悪の彼岸、すなわち宗教意識にまで分け入らねば解決できぬ。もとより倫理学としては、その学の中で解決を求めて追求するのが学の任務・・・ 倉田百三 「学生と教養」
出典:青空文庫