・・・この一行は根岸を出て田端から汽車に乗って、飛鳥山の桜を一見し、それからあるいて赤羽まで往て、かねて碧梧桐が案内知りたる汽車道に出でて土筆狩を始めたそうな。自分らの郷里では春になると男とも女とも言わず郊外へ出て土筆を取ることを非常の楽しみとし・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・という肝癪の一言を以てその座を逐払うに止まるであろう。野心、気取り、虚飾、空威張、凡そこれらのものは色気と共に地を払ってしまった。昔自ら悟ったと思うて居たなどは甚だ愚の極であったということがわかった。今まで悟りと思うて居たことが、悟りでなか・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・そして粟餅のことなどは、一言も云わなかったそうです。そして全くその通りだったろうと私も思います。なぜなら、この森が私へこの話をしたあとで、私は財布からありっきりの銅貨を七銭出して、お礼にやったのでしたが、この森は仲々受け取りませんでした、こ・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・この変てこな議論が一見菜食にだけ適用するように思われるのはそれは思う人がまだこの問題を真剣に考え真実に実行しなかった証拠であります。斯んなことはよくあるのです。 いくら連続していてもその両端では大分ちがっています。太陽スペクトルの七色を・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・陽子は、自分の生活の苦しさなどについて一言もふき子に話す気になれなかった。 四 妹の百代、下の悌、忠一、又従兄の篤介、陽子まで加ったのでふき子の居間は満員であった。円卓子を中心にして、奥の箪笥の前にふき子が例の・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・若い女性たちの中に、この頃、はっきりこういう危険な状態を見分ける鑑識ができてきた。一見ささいなこの実力こそ私たちが大きい苦痛と犠牲を払って進んできた一歩前進の最もたしかな収穫であると思う。若い女性たちは自分もその一人としてきょうの人生を歩い・・・ 宮本百合子 「明日をつくる力」
・・・という一言を、身を割くように思いながら与えたのは、勢いやむことを得なかったのである。 自分の親しく使っていた彼らが、命を惜しまぬものであるとは、忠利は信じている。したがって殉死を苦痛とせぬことも知っている。これに反してもし自分が殉死を許・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・多数の人を陥れた詐偽師を、私が一見して看破したことは度々ある。 これに反して義務心の闕けた人、amoral な人、世間で当にならぬと云う人でも、私と対座して赤裸々に意志を発表すれば、私は愉快を感ずる。私は年久しくそう云う人と相忤わずに往・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・そのくせ互に一言も物は言わない。 ある日の事である。ちょうど土曜日で雨が降っていた。ツァウォツキイは今一人の破落戸とヘルミイネンウェヒの裏の溝端で骨牌をしていた。そのうち暗くなって骨牌が見分けられないようになった。それに雨に濡れて骨牌の・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・の後に隠れてなるたけ早く逃げるがいいよ」と兜の緒を緊めてくれる母親が涙を噛み交ぜて忠告する。ても耳の底に残るように懐かしい声、目の奥に止まるほどに眤しい顔をば「さようならば」の一言で聞き捨て、見捨て、さて陣鉦や太鼓に急き立てられて修羅の街へ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫