・・・ではその人間とはどんなものだと云うと、一口に説明する事は困難だが、苦労人と云う語の持っている一切の俗気を洗ってしまえば、正に菊池は立派な苦労人である。その証拠には自分の如く平生好んで悪辣な弁舌を弄する人間でも、菊池と或問題を論じ合うと、その・・・ 芥川竜之介 「兄貴のような心持」
・・・ロックフェラアに金を借りることは一再ならず空想している。しかし粟野さんに金を借りることはまだ夢にも見た覚えはない。のみならず咄嗟に思い出したのは今朝滔々と粟野さんに売文の悲劇を弁じたことである。彼はまっ赤になったまま、しどろもどろに言い訣を・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・隣屋敷まで聞えそうな声で、わめき立てた事も一再ではない。刀架の刀に手のかかった事も、度々ある。そう云う時の彼はほとんど誰の眼にも、別人のようになってしまう。ふだん黄いろく肉の落ちた顔が、どこと云う事なく痙攣して眼の色まで妙に殺気立って来る。・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・こう云う自分たちの笑い声がどれほど善良な毛利先生につらかったか、――現に自分ですら今日その刻薄な響を想起すると、思わず耳を蔽いたくなる事は一再でない。 それでもなお毛利先生は、休憩時間の喇叭が鳴り渡るまで、勇敢に訳読を続けて行った。そう・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・良人の顔付きには気も着かないほど眼を落した妻は口をだらりと開けたまま一切無頓着でただ馬の跡について歩いた。 K市街地の町端れには空屋が四軒までならんでいた。小さな窓は髑髏のそれのような真暗な眼を往来に向けて開いていた。五軒目には人が住ん・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・不断のように、我身の周囲に行われている、忙わしい、騒がしい、一切の生活が分かる。 はてな。人が殺されたという事実がそれだろうか。自分が、このフレンチが、それに立ち会っていたという事実がそれだろうか。死が恐ろしい、言うに言われぬ苦しいもの・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ ただし、この革鞄の中には、私一身に取って、大切な書類、器具、物品、軽少にもしろ、あらゆる財産、一切の身代、祖先、父母の位牌。実際、生命と斉しいものを残らず納れてあるのです。 が、開けない以上は、誓って、一冊の旅行案内といえども取出・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ 豪雨は今日一日を降りとおして更に今夜も降りとおすものか、あるいはこの日暮頃にでも歇むものか、もしくは今にも歇むものか、一切判らないが、その降り止む時刻によって恐水者の運命は決するのである。いずれにしても明日の事は判らない。判らぬ事には・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・おッ母さんがやって来るのも、その相談だから、そのつもりで、吉弥に対する一切の勘定書きを拵えてもらいましょう」 こう言って、青木が僕の方を見た時には、僕の目に一種の勝利、征服、意趣返し、または誇りとも言うべき様子が映ったので、ひょッとする・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・彦少名命を祀るともいうし、神功皇后と応神天皇とを合祀するともいうし、あるいは女体であるともいうが、左に右く紀州の加太の淡島神社の分祠で、裁縫その他の女芸一切、女の病を加護する神さまには違いない。だが、この寺内の淡島堂は神仏混交の遺物であって・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
出典:青空文庫