・・・以来、十春秋、日夜転輾、鞭影キミヲ尅シ、九狂一拝ノ精進、師ノ御懸念一掃ノオ仕事シテ居ラレルナラバ、私、何ヲ言オウ、声高ク、「アリガトウ」ト明朗、粛然ノ謝辞ノミ。シカルニ、此ノ頃ノ君、タイヘン失礼ナ小説カイテ居ラレル。家郷追放、吹雪ノ中、妻ト・・・ 太宰治 「創生記」
・・・前日より一層劇しい怒を以て、書いている。いやな事と云うものは、する時間が長引くだけいやになるからである。午頃になって、一寸町へ出た。何か少し食って、黒ビイルを一杯引っ掛けて帰って、また書いている。 ようよう銀行員の来る前に書いてしまった・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・この急所の痛みは、他の急所の痛みが消えたために一層鋭く感ぜられて来た。しかしこの方の手術は一層面倒なものであった。第一に手術に使った在来の道具はもう役に立たなかった。吾等の祖先から二千年来使い馴れたユークリッド幾何学では始末が付かなかった。・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ おそらく十年の前から年々にこんな苦情を繰返していたのであるが、つい最近になってふとこの苦情を一掃するような一つの方法を発明した。発明と云っても、それは多くの人には発明でもなんでもない平凡至極なことであるが、しかし自分にとっては実に重大・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・という題で、二曲屏風一双に、枯枝に積った雪とその陰から覗く血のような椿とを描いたのがあった。描き方としては随分重苦しく厚ぼったいものである。軽妙な仕上げを生命とする一派の人の眼で見ればあるいは頭痛を催す種類のものかもしれない。それだけに作家・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・が入ってきてから一層ひどくなった。「ホホン、そりゃええ、“中央集権”で、労働者をしめあげて――」 ある晩、町のカフェーで、学生たちと論争したとき、そのときは酔ってもいたが、小野はあいてのあごの下に顔をつきだしながらいった。「――・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ この年月の経験で、鐘の声が最もわたくしを喜ばすのは、二、三日荒れに荒れた木枯しが、短い冬の日のあわただしく暮れると共に、ぱったり吹きやんで、寒い夜が一層寒く、一層静になったように思われる時、つけたばかりの燈火の下に、独り夕餉の箸を取上・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・わたくしをして過去の感化を一掃することの不可能たるを悟らしめたものは、学理ではなくして、風土気候の力と過去の芸術との二ツであった。この経験については既に小説『冷笑』と『父の恩』との中に細叙してあるから、ここに贅せない。 毎年冬も十二月に・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・後に僕は其主張のあまりに偏狭なることを悟ったのであるが、然し少壮の時に蒙った感化は今に至っても容易に一掃することができない。銀座通のカッフェー内外の光景が僕をしては巴里に在った当時のことを回想せしめ生田さんをしては伯林のむかしを追憶せしめた・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・ 一層を下るごとに下界に近づくような心持ちがする。冥想の皮が剥げるごとく感ぜらるる。階段を降り切って最下の欄干に倚って通りを眺めた時にはついに依然たる一個の俗人となり了ってしまった。案内者は平気な顔をして厨を御覧なさいという。厨は往来よ・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
出典:青空文庫