・・・この句は蛇笏に対する評価を一変する力を具えていた。僕は「ホトトギス」の雑詠に出る蛇笏の名前に注意し出した。勿論その句境も剽窃した。「癆咳の頬美しや冬帽子」「惣嫁指の白きも葱に似たりけり」――僕は蛇笏の影響のもとにそう云う句なども製造した。・・・ 芥川竜之介 「飯田蛇笏」
・・・皿に載せた一片の肉はほんのりと赤い所どころに白い脂肪を交えている。が、ちょっと裏返して見ると、鳥膚になった頬の皮はもじゃもじゃした揉み上げを残している。――と云う空想をしたこともあった。尤も実際口へ入れて見たら、予期通り一杯やれるかどうか、・・・ 芥川竜之介 「格さんと食慾」
・・・譚は大声に笑ってから、今度は隣の林大嬌ヘビスケットの一片を勧めようとした。林大嬌はちょっと顔をしかめ、斜めに彼の手を押し戻した。彼は同じ常談を何人かの芸者と繰り返した。が、そのうちにいつの間にか、やはり愛想の好い顔をしたまま、身動きもしない・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・ 鼻 クレオパトラの鼻が曲っていたとすれば、世界の歴史はその為に一変していたかも知れないとは名高いパスカルの警句である。しかし恋人と云うものは滅多に実相を見るものではない。いや、我我の自己欺瞞は一たび恋愛に陥ったが最後、・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・――いや勇之助が三歳の時、たった一遍、親だと云う白粉焼けのした女が、尋ねて来た事がありました。しかしこれは捨児を種に、悪事でもたくらむつもりだったのでしょう。よくよく問い質して見ると、疑わしい事ばかりでしたから、癇癖の強い日錚和尚は、ほとん・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・仁右衛門はやがてぶらりと小屋を出た。妻は独りで淋しく夕飯を食った。仁右衛門は一片の銀貨を腹がけの丼に入れて見たり、出して見たり、親指で空に弾き上げたりしながら市街地の方に出懸けて行った。 九時――九時といえば農場では夜更けだ――を過ぎて・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・大空をわたる雲の一片となっているか、谷河の水の一滴となっているか、太洋の泡の一つとなっているか、又は思いがけない人の涙堂に貯えられているか、それは知らない。然しその熱い涙はともかくもお前たちだけの尊い所有物なのだ。 自動車のいる所に来る・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・後に母の母が同棲するようになってからは、その感化によって浄土真宗に入って信仰が定まると、外貌が一変して我意のない思い切りのいい、平静な生活を始めるようになった。そして癲癇のような烈しい発作は現われなくなった。もし母が昔の女の道徳に囚れないで・・・ 有島武郎 「私の父と母」
・・・ 大波に漂う小舟は、宙天に揺上らるる時は、ただ波ばかり、白き黒き雲の一片をも見ず、奈落に揉落さるる時は、海底の巌の根なる藻の、紅き碧きをさえ見ると言います。 風の一息死ぬ、真空の一瞬時には、町も、屋根も、軒下の流も、その屋根を圧して・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・ やがて遙に能生を認めたる辺にて、天色は俄に一変せり。――陸は甚だ黒く、沖は真白に。と見る間に血のごとき色は颯と流れたり。日はまさに入らんとせるなり。 ここ一時間を無事に保たば、安危の間を駛する観音丸は、恙なく直江津に着すべきなり。・・・ 泉鏡花 「取舵」
出典:青空文庫