・・・一郎は急いで井戸からバケツに水を一ぱいくんで台所をぐんぐんふきました。 それから金だらいを出して顔をぶるぶる洗うと、戸棚から冷たいごはんと味噌をだして、まるで夢中でざくざく食べました。「一郎、いまお汁できるから少し待ってだらよ。何し・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・その前の日はあの水沢の臨時緯度観測所も通った。あすこは僕たちの日本では東京の次に通りたがる所なんだよ。なぜってあすこを通るとレコードでも何でもみな外国の方まで知れるようになることがあるからなんだ。あすこを通った日は丁度お天気だったけれど、そ・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・それぎり又ぼんやり井戸前の早咲黄菊を眺めている。―― 植村婆さんは可哀そうな気がして来た。「まあお前も、姪のところで悠くり休まっせ。――他人の中よりはいいわな、何てっても血道だもんなあ」 沢や婆は、又返事をしなかった。彼女は手間・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・二羽の鷹はどういう手ぬかりで鷹匠衆の手を離れたか、どうして目に見えぬ獲物を追うように、井戸の中に飛び込んだか知らぬが、それを穿鑿しようなどと思うものは一人もない。鷹は殿様のご寵愛なされたもので、それが荼の当日に、しかもお荼所の岫雲院の井戸に・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・彼は黙って裏の井戸傍へ立って来た。が、秋三の冷たい微笑を思い出すと身体が竦んで固まった。彼は秋三に追いついて力限り打ちめしてしまいたかった。恋人との婚姻もこのまま永久に引き延ばしていたかった。そして、安次を最も残忍な方法で放逐して了ったなら・・・ 横光利一 「南北」
・・・星を数えつつ井戸に落ちた人、骨と皮とになるまで黙然として考えた人は史上の立て物ではない。しかしながら過去数千年の人類の経路は一日としてこの問題から離るるを許さなかった。西行はために健脚となり信長は武骨な舞いを舞った。神農もソクラテスもカント・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫