・・・ 遠藤はピストルを挙げました。いや、挙げようとしたのです。が、その拍子に婆さんが、鴉の啼くような声を立てたかと思うと、まるで電気に打たれたように、ピストルは手から落ちてしまいました。これには勇み立った遠藤も、さすがに胆をひしがれたのでし・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・けれども折角そこまで来ていながら、そのまま引返すのはどうしてもいやでした。で、妹に帽子を脱がせて、それを砂の上に仰向けにおいて、衣物やタオルをその中に丸めこむと私たち三人は手をつなぎ合せて水の中にはいってゆきました。「ひきがしどいね」・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・飽きたり、不満足になったりする時を予想して何にもせずにいる位なら、生れて来なかった方が余っ程可いや。生れた者はきっと死ぬんだから。A 笑わせるない。B 笑ってもいないじゃないか。A 可笑しくもない。B 笑うさ。可笑しくなくっ・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ この女像にして、もし、弓矢を取り、刀剣を撫すとせんか、いや、腰を踏張り、片膝押はだけて身構えているようにて姿甚だととのわず。この方が真ならば、床しさは半ば失せ去る。読む人々も、かくては筋骨逞しく、膝節手ふしもふしくれ立ちたる、がんまの・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・「まあ出しぬけに、どこかへでも来たのかい。まあどうしようか、すまないけど少し待って下さいよ。この桑をやってしまうから」「いや別にどこへ来たというのでもないです。お祖父さんの墓参をかねて、九十九里へいってみようと思って……」「ああ・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・ まもなく後に菊酒屋と云う有名な酒屋にやった所がここも秋口から物やかましいといやがられたので又、ここも縁がないのだからしかたがないと云って呼びかえした。其後又、今度は貸金までして仕度をして何にも商ばいをしない家にやるとここも人手が少なく・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・僕などは、『召集されないかて心配もなく、また召集されるような様子になったら、その前からアメリカへでも飛んで行きたいんを、わが身から進んでそないに力んだかて阿房らしいやないか? て』冷かしてやったんけど大した意気込みで不平を云うとって、取り合・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ウ大陽気だったので、必定お客を呼んでの大酒宴の真最中と、暫らく戸外に佇立って躊躇していたが、どうもそうらしくもないので、やがて玄関に音なうと、ピッタリ三味線が止んで現れたのはシラフの真面目な椿岳で、「イヤこれはこれは、今日は全家が出払って余・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・コイツ失敗ったと、直ぐ詫びに君の許へ出掛けると今度は君が留守でボンヤリ帰ったようなわけさ。イヤ失敬した、失敬した……」と初めから砕けて一見旧知の如くであった。 その晩はドンナ話をしたか忘れてしまったが、十時頃まで話し込んだ。学生風なのは・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・随分いやな頼まれごとでも快く承諾されたのは一再でない。或る時などは、私は万年筆のことを書いて下さいと頼んだ。若い元気の好い文学者へでも、こんな事を頼もうものなら、それこそムキになって怒られようが、先生は別に嫌な顔などはせられなかった。ただ「・・・ 内田魯庵 「温情の裕かな夏目さん」
出典:青空文庫