・・・ 私は起きて寝巻きの上に羽織を引掛け、玄関に出て、二人のお客に、「いらっしゃいまし」 と挨拶しました。「や、これは奥さんですか」 膝きりの短い外套を着た五十すぎくらいの丸顔の男のひとが、少しも笑わずに私に向ってちょっと首・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・一人でどこへでもいらっしゃいと言う。まあともかくもと美代がすかしなだめて、やっと出かける事になる。実にいい天気だ。「人間の心が蒸発して霞になりそうな日だね」と言ったら、一間ばかりあとを雪駄を引きずりながら、大儀そうについて来た妻は、エヽと気・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・私の講演を行住坐臥共に覚えていらっしゃいと言っても、心理作用に反した注文なら誰も承知する者はありません。これと同じようにあなた方と云うやはり一箇の団体の意識の内容を検して見るとたとえ一カ月に亘ろうが一年に亘ろうが一カ月には一カ月を括るべき炳・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・御察し申しまするに、あなたはわたくしのいたした事を無責任極まる所為だと思召して、ひどくご立腹になっていらっしゃいますのでしょう。自分で顧みて見ましても、わたくしのいたした事は余り気の利いた所為だとは申されません。全く子供らしい振舞だったと申・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・「おや、ひばりさん、いらっしゃい。今日なんか高いとこは風が強いでしょうね」「ええ、ひどい風ですよ。大きく口をあくと風が僕のからだをまるで麦酒瓶のようにボウと鳴らして行くくらいですからね。わめくも歌うも容易のこっちゃありませんよ」・・・ 宮沢賢治 「おきなぐさ」
・・・「そりゃあってよ、どこだって貸すわ、でも――もし来るんならそんなことしないだって、家へいらっしゃいよ」「二三日ならいいけど」「永くたっていいわ、私永いほど結構! ね? 本当に家へいらっしゃいよ、淋しくってまいるんだから」「い・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・先っき瓦斯煖炉に火を附けにまいりました時は、明りはお消しになって、お床の中で煙草を召し上がっていらっしゃいました。」 雪はこの返事をしながら、戸を開けて自分が這入った時、大きい葉巻の火が、暗い部屋の、しんとしている中で、ぼうっと明るくな・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・その時はあなたがまだ栗色の髪の毛をしていらっしゃいました。わたくしもあの時から見ると、髪の色が段々明るくなっています。晩餐を食べましたのは、市外の公園の料理店でございました。ちょうど宅はベルリンに二週間ほど滞留しなくてはならない用事がありま・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
・・・「いらっしゃいませ。今晩はまア、大へんな降りでこざいまして。さア、どうぞ。」 灸の母は玄関の時計の下へ膝をついて婦人にいった。「まアお嬢様のお可愛らしゅうていらっしゃいますこと。」 女の子は眠むそうな顔をして灸の方を眺めてい・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・ご存じでいらっしゃいますか。」そういってその娘の指さす方を見ると、うなだれた暗い婦人が、毛皮にくるまって、自分の荷物のそばに立っている。初めてこの時ヘルマン・バアルはエレオノラ・デュウゼの蒼白い、弱々しげな、力なげな姿を見たのである。 ・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫