・・・とりわけ女の人の声には、どこか皮膚の表面を撫でるような、甘美でうっとりとした魅力があった。すべての物象と人物とが、影のように往来していた。 私が始めて気付いたことは、こうした町全体のアトモスフィアが、非常に繊細な注意によって、人為的に構・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・余は梅の精霊でもあるまいかと思うた。やがて柿はむけた。余はそれを食うていると彼は更に他の柿をむいでいる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしているとボーンという釣鐘の音が一つ聞こえた。彼女は、オヤ初夜が鳴るというてなお柿をむきつづけている・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・ホモイは、ある雲のない静かな晩、はじめてうちからちょっと出てみました。 南の空を、赤い星がしきりにななめに走りました。ホモイはうっとりそれを見とれました。すると不意に、空でブルルッとはねの音がして、二疋の小鳥が降りて参りました。 大・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・ブドリはまるでうっとりとしてそれに見とれました。そのうちにだんだん日は暮れて、雲の海もあかりが消えたときは、灰いろかねずみいろかわからないようになりました。 受話器が鳴りました。「硝酸アムモニヤはもう雨の中へでてきている。量もこれぐ・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・ うっとりとした彼の目には、拭きこんだ硝子越しに、葉をふるい落した冬の欅の優美な細枝が、くっきり青空に浮いているのが見えた。ほんの僅かな白雲が微に流れて端の枝を掠め、次の枝の陰になり、繊細な黒レースのような真中の濃い網めを通って彼方にゆ・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・しめりかけの芝草がうっとりする香を放つ。野生の野菊の純白な花、紫のイリス、祖母と二人、早い夕食の膳に向っていると、六月の自然が魂までとけて流れ込んで来る。私はうれしいような悲しいような――いわばセンチメンタルな心持になる。祖母は八十四だ。女・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・ 正道はうっとりとなって、この詞に聞き惚れた。そのうち臓腑が煮え返るようになって、獣めいた叫びが口から出ようとするのを、歯を食いしばってこらえた。たちまち正道は縛られた縄が解けたように垣のうちへ駆け込んだ。そして足には粟の穂を踏み散・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・お霜は床に腰を下ろすと、うっとりしながら眼の前に拡っている茶の木畑のよく刈り摘まれた円い波々を眺めていた。小屋の裏手の深い掘割の底を流れる水の音がした。石橋を渡る駄馬の蹄の音もした。そして、満腹の雀は弛んだ電線の上で、無用な囀りを続けながら・・・ 横光利一 「南北」
・・・だが、その花の中から時々馬鹿げた小僧の顔がうっとりと現れる。その横の洋服屋では首のない人間がぶらりと下がり、主人は貧血の指先で耳を掘りながら向いの理亭の匂いを嗅いでいた。その横には鎧のような本屋が口を開けていた。本屋の横には呉服屋が並んでい・・・ 横光利一 「街の底」
・・・ 音楽に陶酔した彼らは、時々うっとりとした眼をあげて、あの神々しい偶像をながめる。彼らはもう自分自身のことなどを意識しない。彼らの心は偶像の内に融け入り、ただ無限の感謝と祝福との内に、強烈な光燿と全心の軽快とを経験するのである。――実際・・・ 和辻哲郎 「偶像崇拝の心理」
出典:青空文庫