・・・何だ、袖に映したって、映るものかね。ここは引汐か、水が動く。――こっちが可い。あの松影の澄んだ処が。」「ああ、御免なさい。堪忍して……映すと狐になりますから。」「私が請合う、大丈夫だ。」「まあ。」「ね、そのままの細い翡翠じゃ・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・火を点じて後、窓を展きて屋外の蓮池を背にし、涼を取りつつ机に向いて、亡き母の供養のために法華経ぞ写したる。その傍に老媼ありて、頻に針を運ばせつ。時にかの蝦蟇法師は、どこを徘徊したりけむ、ふと今ここに来れるが、早くもお通の姿を見て、眼を細め舌・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・ そういって兄は背負うたスガイ藁を右の肩から左の肩へ移した。隣のお袋と満蔵とはどんなおもしろい話をしてかしきりに高笑いをする。清さんはチンチンと手鼻をかんでちょこちょこ歩きをする。おとよさんは不興な顔をして横目に見るのである。 今年・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ぞっと身振いをするほど、著しき徴候を現したのである。しかし何というても二人の関係は卵時代で極めて取りとめがない。人に見られて見苦しい様なこともせず、顧みて自ら疚しい様なこともせぬ。従ってまだまだ暢気なもので、人前を繕うと云う様な心持は極めて・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・夕照りうららかな四囲の若葉をその水面に写し、湖心寂然として人世以外に別天地の意味を湛えている。 この小湖には俗な名がついている、俗な名を言えば清地を汚すの感がある。湖水を挟んで相対している二つの古刹は、東岡なるを済福寺とかいう。神々しい・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・或る時尋ねると、極細い真書きで精々と写し物をしているので、何を写しているかと訊くと、その頃地学雑誌に連掲中の「鉱物字彙」であった。ソンナものを写すのは馬鹿馬鹿しい、近日丸善から出版されるというと、そうか、イイ事を聞いた、無駄骨折をせずとも済・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・座敷の縁側を通り過ぎて陰気な重苦しい土蔵の中に案内されると、あたかも方頷無髯の巨漢が高い卓子の上から薄暗いランプを移して、今まで腰を掛けていたらしい黒塗の箱の上の蒲団を跳退けて代りに置く処だった。 一応初対面の挨拶を済まして部屋の四周を・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・来の氏族政治を廃して、藤氏の長者に取って代って陪臣内閣を樹立したのは、無爵の原敬が野人内閣を組織したよりもヨリ以上世間の眼をらしたもんで、この新鋭の元気で一足飛びに欧米の新文明を極東日本の蓬莱仙洲に出現しようと計画したその第一着手に、先ず欧・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・「よく、日の当たるところに移して、大事にしてごらんなさい。」と、お母さまは、それに対して答えられました。 春の彼岸が過ぎて、桜の花が散ったころ一つの鉢から真紅な花が開きました。その花は、あまりに美しくもろかったのであります。そして、・・・ 小川未明 「青い花の香り」
川の中に、魚がすんでいました。 春になると、いろいろの花が川のほとりに咲きました。木が、枝を川の上に拡げていましたから、こずえに咲いた、真紅な花や、またうす紅の花は、その美しい姿を水の面に映したのであります。 なんのたのしみも・・・ 小川未明 「赤い魚と子供」
出典:青空文庫