・・・「少佐殿。お見忘になりましたか知れませんが、戦地でお世話になった輜重輸卒の麻生でござります。」「うむ。軍司令部にいた麻生か。」「はい。」「どうして来た。」「予備役になりまして帰っております。内は大里でございます。少佐殿に・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・「あら。そんなことをおっしゃると、日本の紳士がこういったと、アメリカで話してよ。日本の官吏がといいましょうか。あなた官吏でしょう」「うむ。官吏だ」「お行儀がよくって」「おそろしくいい。本当のフィリステルになりすましている。き・・・ 森鴎外 「普請中」
・・・「何処って、俺に行くところがありゃ結構やさ。」「帰って来たんか?」「帰ったんや。医者がお前、保たん云いさらしてのう。心臓や。」「心臓か、えろう上品や病やのう。」「うむ、もう念仏や。お母はおらんか。」「お母に何ぞ用があ・・・ 横光利一 「南北」
・・・「お前は、死ぬのが、ちょっとも怖くはないのかね。」「ええ。」と妻は答えた。「お前は、もう生きたいとは、ちょっとも思わないのかね。」「あたし、死にたい。」「うむ。」と彼は頷いた。 二人には二人の心が硝子の両面から覗き合・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・ただ正直に、必然に従って、愛の力で産む、――そこにのみ真の創作があるのである。 さらにまた芸術の創作については、大いなる者を姙むことが重大である。すなわち自己の生命をより高くより深く築いて行くことが、創作の価値をより高からしめるためには・・・ 和辻哲郎 「創作の心理について」
一 人生が苦患の谷であることを私もまたしみじみと感じる。しかし私はそれによって生きる勇気を消されはしない。苦患のなかからのみ、真の幸福と歓喜は生まれ出る。 ある人は言うだろう。歓喜を産む苦患は真の苦患でない。苦患の形をした歓・・・ 和辻哲郎 「ベエトォフェンの面」
出典:青空文庫