・・・彼女はおよそ何時間ぐらいその床の上に呻き続けたかもよく覚えなかった。唯、しょんぼりと電燈のかげに坐っているような弟の顔が彼女の眼に映った。 翌日は熊吉もにわかに奔走を始めた。おげんは弟が自分のために心配して家を出て行ったことを感づいたが・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ とかすれたる声もて呻き念じ、辛じて堪え忍ぶ有様に御座候。然れども、之を以て直ちに老生の武術に於ける才能の貧困を云々するは早計にて、嘗つて誰か、ただ一日の修行にて武術の蘊奥を極め得たる。思う念力、岩をもとおすためしも有之、あたかも、太原の一・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・先生は一体、どんな事をやらかして居られるのか、じゃぼじゃぼという音ばかり、絶えまなくかまびすしく聞えて来て、時たま、ううむという先生の呻き声さえまじる有様になって来たので、私たちは不安のあまり立ち上った。「先生!」と私は襖をへだて呼びか・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・あさ、眠りながら苦しげに呻く。呻きが、つづく。お母さん、お母さん。 ああ、(と眼ざめて深い溜息ああ、お前かい。 どこか、お苦しい? いいえ、何だかいやな、おそろしい夢を見て、……睦子は? けさ早く、おじいちゃ・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・とも言いました。王子は、正直な人でした。でも、正直の美徳だけでは、ラプンツェルの重い病気をなおす事は出来ません。「生きていてくれ!」と呻きました。「死んでは、いかん!」と叫びました。他に何も、言うべき言葉が無いのです。「ただ、生きて・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・ぶ好くなったから明日あたりから床を上げましょうとさえ言ったのに――今、眼の前に露子の姿を浮べて見ると――浮べて見るのではない、自然に浮んで来るのだが――頭へ氷嚢を載せて、長い髪を半分濡らして、うんうん呻きながら、枕の上へのり出してくる。――・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 彼等は、足下から湧いて来る、泥のような呻き声に苛まれた。そして、日一日と病人は殖えた。 多くもない労働者が、機関銃の前の決死隊のように、死へ追いやられた。 十七人の労働者と、二人の士官と、二人の司厨が、ピークに、「勝手に」飛び・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・彼女はこみあげて来る心に堪えかねて呻くのだ、その呻きとプーシュキンの詩句とがきっちり結びつけて離れない。そういうものだろうと思う。マーシャを演じた女優は、此点、掴みようが足りなく感じられた。そして、其が全般に及ぼしているらしく思われた。・・・ 宮本百合子 「「三人姉妹」のマーシャ」
・・・忘れかねたる吾子初台に住むときいて通るたびに電車からのび上るのは何のためか 呻きのように母の思いのなり響く「秋」世路の荒さを肌に感じさせる「南風の烈しき日」ひとりをかみしめて食む 夕食と涙たよりに・・・ 宮本百合子 「『静かなる愛』と『諸国の天女』」
・・・その意味では昨今の地球の呻きは人間ぽさに咽せるばかりであるわけだが、文学が、人と人とのいきさつとして益々多彩にその姿をつかまず、却って生物的な面へ人間を単純化して、現代の禍福をも語ろうとする傾向を一方に生じていることは私たちを深く考えさせる・・・ 宮本百合子 「生態の流行」
出典:青空文庫