・・・船も三十石なら酒も三十石、さア今夜はうんと……、飲まぬ先からの酔うた声で巧く捌いてしまった。伏見は酒の名所、寺田屋は伏見の船宿で、そこから大阪へ下る淀船の名が三十石だとは、もとよりその席の誰ひとり知らぬ者はなく、この仲人の下手な洒落に気まず・・・ 織田作之助 「螢」
・・・俗に、河童横町の材木屋の主人から随分と良い条件で話があったので、お辰の頭に思いがけぬ血色が出たが、ゆくゆくは妾にしろとの肚が読めて父親はうんと言わず、日本橋三丁目の古着屋へばかに悪い条件で女中奉公させた。河童横町は昔河童が棲んでいたといわれ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・これを米屋の番頭から聞きこんだあるはしっこい女は、じゃ、うちにある外米を売ってあげよう、うんと安くしてあげてもかまわないから、と云いだした。 往復一里もあるその部落へその女は負い籠を背負って行ったそうだが、結果がどうなったかは帰って来て・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
・・・全身の力をこめて、うんと枕木を踏んばり、それで前へ押さなきゃならない。しかも力をゆるめるとすぐ止る。で、端から端まで、――女達のいるところから、ケージのおりて来るところまで、――枕木を踏んばり通さなきゃならなかった。 彼は、まだ十五歳だ・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・私は両方の拳を堅く握りしめ、それをうんと高く延ばし、大きなあくびを一つした。「大都市は墓地です。人間はそこには生活していないのです。」 これは日ごろ私の胸を往ったり来たりする、あるすぐれた芸術家の言葉だ。あの子供らのよく遊びに行った・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ その人は身を斜めにし、うんと腰に力を入れて、土の塊を掘起しながら話した。風が来て青麦を渡るのと、谷川の音と、その間には蛙の鳴声も混って、どうかすると二人の話はとぎれとぎれに通ずる。「桜井先生や、広岡先生には、せめて御住宅ぐらいを造・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・一と畚溜ればうんと引っ抱えて、畦に放した馬の両腹の、網の袋へうつしこむ。馬は畠へ影を投げて笹の葉を喰っている。自分はお長と並んで、畠の隅の蓆の上で煙草を吹かす。双た親は鍬を休めるたびごとには自分の方を向いて話しをする。お長も時々袖を引いて手・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・豊田様のお家の、あの画が、もっと、うんと、高くなってくれたらいいと思って居ります。 太宰治 「青森」
・・・お巡りは、うんと力こめて石をほうって、「頭のよさそうな方じゃないか。あのひとは、いまに偉くなるぞ」「そうですとも、そうですとも」お慶の誇らしげな高い声である。「あのかたは、お小さいときからひとり変って居られた。目下のものにもそれは親切に・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・ある日思い切って左の頬をうんと切り落としてから後はこの不思議な幽霊に脅かされる事は二度となくなった。 いつまでやってもついにできあがる見込みはなさそうに思われだした。ある日K君にこのごろ得たいろいろの経験を話しているうちに同君が次のよう・・・ 寺田寅彦 「自画像」
出典:青空文庫