・・・「どこへ行く。」「内へ帰る。書きものがある。」「書きもの。」旆騎兵中尉は、「気が違ったかい」と附け加えたかったのを、我慢して呑み込んだ。「うん。書きものだ。」こう云うとたんに、丁度美しい小娘がジュポンの裾を撮んで、ぬかるみを・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・英語の先生のHというのが風貌魁偉で生徒からこわがられていたが、それが船暈でひどく弱って手ぬぐいで鉢巻してうんうんうなっていた。それでも講義の時の口調で「これではブラックホールの苦しみに優るとも劣ることはない」といって生徒を笑わせた。当時マコ・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・とまあ恁云う返答だ。うん、然うだったか。それなら何も心配することはねい。どんな大将だって初めは皆な少尉候補生から仕上げて行くんだから、その点は一向差閊えない。十分やって行けるようにするからと云うんで、世帯道具や何や彼や大将の方から悉皆持ち込・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・深水はからだをのりだすようにして、「そりゃええ、パトロンが出来たなら、鬼に金棒さ、うん――」 ゆあがりの胸をひろげて、うちわを大げさにうごかしている。頭髪にチックをつけている深水は、新婚の女房も意識にいれてるふうで、「――わしも・・・ 徳永直 「白い道」
・・・「それじゃあ、ただうんうん云って聞いてる振をしていりゃよかろう」津田君は外部の刺激のいかんに関せず心は自由に働き得ると考えているらしい。心理学者にも似合しからぬ事だ。「しかしそれだけじゃないのだからな。精細なる会計報告が済むと、今度・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・「うん、余る位だ。ホラ電車賃だ」 そこで私は、十銭銀貨一つだけ残して、すっかり捲き上げられた。「どうだい、行くかい」蛞蝓は訊いた。「見料を払ったじゃねえか」と私は答えた。私の右腕を掴んでた男が、「こっちだ」と云いながら先へ立・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・(うん。あの女の人は孫娘らしい。亭主はきっと礦山ひるの青金の黄銅鉱や方解石に柘榴石のまじった粗鉱の堆を考えながら富沢は云った。女はまた入って来た。そして黙って押入れをあけて二枚のうすべりといの角枕をならべて置いてまた台所の方へ行った。・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・――あれだろう?――うん、これよ」 沢や婆は、不服気に仕舞い込んだ。「――柳田村だっけな、婆やの姪の家は――あすこまで大分有っぺえが――歩けるかい」「仙二さんが、荷車に乗せてってくれますってよ」 ……もう土間の隅では微に地虫・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・女房があとからそっとはいって枕を出して当てさせたとき、長十郎は「ううん」とうなって寝返りをしただけで、また鼾をかき続けている。女房はじっと夫の顔を見ていたが、たちまちあわてたように起って部屋へ往った。泣いてはならぬと思ったのである。 家・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・心臓をやられてさ。うん、ひどい目にあった。」と彼から云った。 秋三は自分の子供時代に見た村相撲の場景を真先に思い浮かべた。それは、負けても賞金の貰える勝負に限って、すがめの男が幾度となく相手関わず飛び出して忽ち誰にも棹のように倒されなが・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫