・・・芥川氏に聞けば、老女は名をえいと云う。香以の嫡子が慶三郎で、慶三郎の女がこのえいである。えいの夫の名は誤っていなかった。 わたくしはえいが墓参の事を言うついでに附記したい。それは願行寺の樒売の翁媼の事である。えいの事をわたくしの問うたこ・・・ 森鴎外 「細木香以」
・・・わたくしも自分がかなり風采の好い男だとは思っていました。しかしまあ世間普通の好男子ですね。世間でおめかしをした Adonis なんどと云う性で、娘子の好く青年士官や、服屋の見本にかいてある男にある顔なのです。そこでわたくしは非常に反抗心を起・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
・・・一度、人は心から自分の手の平を合して見るが良い。とどの詰りはそれより無く、もし有ったところで、それは物があるということだけかも知れぬ。人人の認識というものはただ見たことだけだ。雑念はすべて誤りという不可思議な中で、しきりに人は思わねばならぬ・・・ 横光利一 「鵜飼」
・・・男は響の好い、節奏のはっきりしたデネマルク語で、もし靴が一足間違ってはいないかと問うた。 果して己は間違った靴を一足受け取っていた。男は自分の過を謝した。 その時己はこの男の名を問うたが、なぜそんな事をしたのだか分からない。多分体格・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・ フィンクは今の声がまたすれば好いと思って待っている。そのうち果してまた声がする。「大勢の知らない方と一つ部屋で一晩暮すのは厭なものでございますね。そうでございましょう。人間というものは夜は変になりますのね。誰も誰も持っている秘密が・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・ですがその奥さまというのが、僕のためにはナンともいえない好い方で、その方の事を考えても、話にしても、何だか妙に嬉しいような悲しいような心持がして来るんです。美人といえばそれまでですが、僕はあんな高尚な、天人のような美人は見た事がないんです。・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・ この北条早雲の名において、『早雲寺殿二十一条』という掟書が残っているが、これはその内容の直截簡明な点において非常に気持ちの好いものである。その中で最も力説せられているのは「正直」であって、その点、伝統的な思想と少しも変わらないのである・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・劇場を出た時には三人とも歓びのあまり、酔いつぶれた人のように、気の狂った人のように、恥も外聞もなく、よろめいて歩いた。バアルはその夜徹夜して書きたいような心持ちになったが、筆をとってみると一語さえも書くことはできない。デュウゼについて初めて・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
・・・ Luigi Rasi のデュウゼ伝によると、デュウゼの血は劇場の内に流れていた。彼女は「劇場の子」である。 彼女の祖父はヴェネチアで評判の役者だった。そのころは幕がおりてから、役者が幕外へ明晩の芸題の披露に出る習慣であったが、・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫