・・・(家来ランプを点して持ち来り、置いて帰り行ええ、またこの燈火が照すと、己の部屋のがらくた道具が見える。これが己の求める物に達する真直な道を見る事の出来ない時、厭な間道を探し損なった記念品だ。この十字架に掛けられていなさる耶蘇殿は定めて身に覚・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・斯ういう風に考えて来たので今迄の煩悶は痕もなく消えてしもうてすがすがしいええ心持になってしもうた。 冬になって来てから痛みが増すとか呼吸が苦しいとかで時々は死を感ずるために不愉快な時間を送ることもある。併し夏に比すると頭脳にしまりがあっ・・・ 正岡子規 「死後」
・・・「だっていけないんですって。風が毎日そういったわ。」「いやだわね。」「そしてあたしたちもみんなばらばらにわかれてしまうんでしょう。」「ええ、そうよ。もうあたしなんにもいらないわ。」「あたしもよ。今までいろいろわがままばっ・・・ 宮沢賢治 「いちょうの実」
・・・「ここへ置きますから、どうぞ上って下さい」「ええ、ありがと」 婆さんが出てから振返って見ると、朱塗りの丸盆の上に椀と飯茶碗と香物がのせられ、箱火鉢の傍の畳に直に置いてあった。陽子は立って行って盆を木箱の上にのせた。上り端の四畳の・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・「それじゃあ腹水か、腹腔の腫瘍かという問題なのだね。君は見たのかい」「ええ。波動はありません。既往症を聞いて見ても、肝臓に何か来そうな、取り留めた事実もないのです。酒はどうかと云うと、厭ではないと云います。はてなと思って好く聞いて見・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・ 女。ええ。 男。それからですね。どんな風に事柄が運んで行ったと云うことはあなたもまだ覚えていらっしゃるでしょう。ブダペストへ参ってからも、わたくしはあなたと御交際を続けて行きました時も、まだ御主人がどんな方だか知らなかったのですね・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
・・・「秋が連れて来たんか?」「うん、秋がお前、株内はここだけや云いよってさ。」「母屋へ行け母屋へ。かまうか、俺がつれてってやろ。あいつ、ほんまに猾い奴や!」「お前頼んでくれんか?」「ええとも、あの餓鬼ったら、仕様のない奴や。・・・ 横光利一 「南北」
・・・「お前さんも海水浴をするかね」と、己が問うた。「ええ。毎晩いたします。」「泳げるかね。」「大好きです。」 なぜ夜海水浴をするのか問おうかと思ったが止めた。多分昼間は隙がないのだろう。「冬になるとお前さんどこへ行くかね・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・「あなたはまだ極くお若いのでしょう。ねえ、お嬢さん。」この詞を、フィンクは相手の話を遮るように云って、そして心のうちでは、また下らないことを云ったなと後悔した。「ええ。わたくしはまだ若うございます。」女はさっぱりと云った。そしてそう・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫