・・・その時はついにそれぎりで、樗牛はえらいともえらくないともつかずにしまったが、ほとんど十年近くも読んだことのない樗牛をまたのぞいてみる気になったのは、全くこの議論のおかげである。 自分はその後まもなく、秋の夜の電灯の下で、書棚のすみから樗・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
・・・ライオンハミガキの広告灯が赤になり青になり黄に変って点滅するあの南の夜空は、私の胸を悩ましく揺ぶり、私はえらくなって文子と結婚しなければならぬと、中等商業の講義録をひもとくのだったが、私の想いはすぐ講義録を遠くはなれて、どこかで聞えている大・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・そうかといって、醤油屋の労働者になっても、仕事がえらくて、賃銀は少なかった。が今更、百姓をやめて商売人に早変りをすることも出来なければ、醤油屋の番頭になる訳にも行かない。しかし息子を、自分がたどって来たような不利な立場に陥入れるのは、彼れに・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・刀を振りまわしたのも、呶なりつけたのも、自分をメリケン兵よりもえらく見せるがためだった。彼には、そのやり方が、まだ足りなかったようで、遺憾に堪えないものがあった。「俺は中尉だ、兵卒とは違うんだ! どうしてそれが露助に分らんのだろう! ど・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・両人は息子がえらくなるのがたのしみだった。それによって、両人の苦労は殆どつぐなわれた。一年在学を延期するのも、息子がそれだけえらくなるのだと思うと、慰められないこともなかった。「清よ、これゃどこの本どいや?」為吉は読めもしない息子の本を・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・こんな男は、自分をあらわに罵る人に心服し奉仕し、自分を優しくいたわる人には、えらく威張って蹴散らして、そうしてすましているものである。男爵は、けれども、その夜は、流石に自分の故郷のことなど思い出され、床の中で転輾した。 ――私は、やっぱ・・・ 太宰治 「花燭」
・・・それだけでも日本がえらくなったには相違ない。これでもし世界じゅうの他の国が昔のままに「足踏み」をして、日本の追いつくのを待っていてくれたらさぞいいだろう。 町はずれに近く青いペンキ塗りの新築が目についた。それを主題にしたスケッチを一枚か・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・ディーツゲンのようにえらくはないにしても、地方にいて、何の誰べぇとも知られず、生涯をささげるということは美くしい気がした。そしてこの竹びしゃく作りなら、熊本の警察がいくら朝晩にやってこようと、くびになる怖れがなかった。「しかし、彼女は竹・・・ 徳永直 「白い道」
・・・そうして学士会院の表彰に驚ろいて、急に木村氏をえらく吹聴し始めた。吹聴の程度が木村氏の偉さと比例するとしても、木村氏と他の学者とを合せて、一様に坑中に葬り去った一カ月前の無知なる公平は、全然破れてしまった訳になる。一旦木村博士を賞揚するなら・・・ 夏目漱石 「学者と名誉」
・・・また昔は階級制度が厳しいために過去の英雄豪傑は非常にえらい人のように見えて、自分より上の人は非常にえらくかつ古人が世の中に存在し得るという信仰があったため、また、一は所が隔たっていて目のあたり見なれぬために遠隔の地の人のことは非常に誇大して・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
出典:青空文庫