・・・そうして扁平な頭をぶるぶると擡げるのみで追うて人を噛むことはない。太十も甞て人を打擲したことがなかった。彼はすぐ怒るだけに又すぐに解ける。殊に瞽女のお石と馴染んでからはもうどんな時でもお石の噺が出れば相好を崩して畢う。大きな口が更に拡がって・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・然し瞽女の噂をして彼に揶揄おうとするものは彼の年輩の者にはない。随って彼の交際する範囲は三四十代の壮者に限られて居るのである。以前奉公して居た頃も稀には若い衆に跟いて夜遊びに出ることもあった。彼も他人のするように手拭かぶって跟いて行った。帰・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・中味を棄てて輪廓だけを畳み込むのは、天保銭を脊負う代りに紙幣を懐にすると同じく小さな人間として軽便だからである。 この意味においてイズムは会社の決算報告に比較すべきものである。更に生徒の学年成績に匹敵すべきものである。僅一行の数字の裏面・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・わが末期の呪を負うて北の方へ走れ」と女は両手を高く天に挙げて、朽ちたる木の野分を受けたる如く、五色の糸と氷を欺く砕片の乱るる中にどうと仆れる。 三 袖 可憐なるエレーンは人知らぬ菫の如くアストラットの古城を照らして、・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・あるときは赤き帽の首打ち振りて馬追うさまも見ゆる。あるときは白き髯の寛き衣を纏いて、長き杖の先に小さき瓢を括しつけながら行く巡礼姿も見える。又あるときは頭よりただ一枚と思わるる真白の上衣被りて、眼口も手足も確と分ちかねたるが、けたたましげに・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・善吉は足早に吉里の後を追うて、梯子の中段で追いついたが、吉里は見返りもしないで下湯場の方へ屈ッた。善吉はしばらく待ッていたが、吉里が急に出て来る様子もないから、われ一人悄然として顔を洗いに行ッた。 そこには客が二人顔を洗ッていた。敵娼は・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・たとえば医学の如きは、日本にてその由来も久しく、したがってその術も他の諸科に超越するものなれども、今日の有様を見れば、西洋の日新を逐うて、つねに及ばざるの嘆をまぬかれず。数百年の久しき、日本にて医学上の新発明ありしを聞かざるのみならず、我が・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・夢の中に泣いて苦労に疲れて胸にはあくがれの重荷を負うて暖かい欲望を抑えながらも、熟すればわしの手に落ちるのが人生じゃ。主人。その熟している己ではないから、どうぞ許して貰いたい。己はまだこの世の土に噛り付いていたいのだ。お前に逢うての怖し・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
四月廿九日の空は青々と晴れ渡って、自分のような病人は寝て居る足のさきに微寒を感ずるほどであった。格堂が来て左千夫の話をしたので、ふと思いついて左千夫を訪おうと決心した。左千夫の家は本所の茅場町にあるので牡丹の頃には是非来いといわれて居・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・見あぐれば千仞の谷間より木を負うて下り来る樵夫二人三人のそりのそりとものも得言わで汗を滴らすさまいと哀れなり。 樵夫二人だまつて霧をあらはるゝ 樵夫も馬子も皆足を茶屋にやすむればそれぞれにいたわる婆様のなさけ一椀の渋茶よりもなお・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
出典:青空文庫