・・・そして私の万年筆がそれを書き終えるか終えないに、私はすぐお前たちの事を思った。私の心は悪事でも働いたように痛かった。しかも事実は事実だ。私はその点で幸福だった。お前たちは不幸だ。恢復の途なく不幸だ。不幸なものたちよ。 暁方の三時からゆる・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ 四 夕飯が終えるとお祖母さんは風気だとかで寝てしもた。背戸山の竹に雨の音がする。しずくの音がしとしとと聞こえる。その竹山ごしに隣のお袋の声だ。「となりの旦那あ、湯があきましたよ」「はあえ――」 おはまが・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・やがて、庄之助は長いお祈りを終えると、「さア帰ろう」 と、寿子の小さな手を握った。ヴァイオリン弾きになるには、あまりにも小さ過ぎる手であった。 そして、庄之助はわき眼もふらずに、そわそわと歩きだした。 北向き八幡宮へも寄らな・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・所謂刳磔の苦労をして、一作、一作を書き終えるごとに、世評はともあれ、彼の屈辱の傷はいよいよ激烈にうずき、痛み、彼の心の満たされぬ空洞が、いよいよひろがり、深まり、そうして死んだのである。傑作の幻影にだまくらかされ、永遠の美に魅せられ、浮かさ・・・ 太宰治 「逆行」
・・・――ぼくは直ちに職場に組織を作り、キャップとなり、仕事を終えると、街で上の線と逢い、きっ茶店で、顔をこわばらせて、秘密書類を交換しました。その内、僅か四五カ月。間もなく、プロバカートル事件が起り、逃げてきて転向し、再び経済記者に返った兄の働・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・マタイ伝二十八章、読み終えるのに、三年かかった。マルコ、ルカ、ヨハネ、ああ、ヨハネ伝の翼を得るは、いつの日か。「苦しくとも、少し我慢なさい。悪いようには、しないから。」四十歳の人の言葉。母よ、兄よ。私たちこそ、私たちのあがきこそ、ま・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・ 或日、昼餉を終えると親は顎を撫でながら剃刀を取り出した。吉は湯を呑んでいた。「誰だ、この剃刀をぼろぼろにしたのは。」 父親は剃刀の刃をすかして見てから、紙の端を二つに折って切ってみた。が、少し引っかかった。父の顔は嶮しくなった・・・ 横光利一 「笑われた子」
・・・緑樹の間に点綴されていかにも孟春らしい感じを醸し出す落葉樹は、葉の大きいもの、中ぐらいのもの、小さいものといろいろあったが、それらは皆同じように、新芽の色から若葉の色までの変遷と展開を五月の上句までに終えるのである。そうしてそのあとに常緑樹・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
出典:青空文庫