・・・信子は何かおかしそうに言葉を杜断らせた。「あしたお帰りですかて?」母が聞きかえした。 吉峰さんのおばさんに「いつお帰りです。あしたお帰りですか」と訊かれて、信子が間誤ついて「ええ、あしたお帰りです」と言ったという話だった。母や彼が笑・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・(私の美に対する情熱が娘に対する情熱と胎を共にした双生児だったことが確かに信じられる今、私は窃盗に近いこと詐欺に等しいことをまだ年少だった自分がその末犯したことを、あなたにうちあけて、あとで困るようなことはないと思います。それ等は実に今・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・一本一本の木が犯しがたい威厳をあらわして来、しんしんと立ち並び、立ち静まって来るのである。そして昼間は感じられなかった地域がかしこにここに杉の秀並みの間へ想像されるようになる。溪側にはまた樫や椎の常緑樹に交じって一本の落葉樹が裸の枝に朱色の・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・ ここに父上の祖父様らしくなられ候に引き換えて母上はますます元気よろしくことに近ごろは『ワッペウさん』というあだ名まで取られ候て、折り折り『おしゃべり』と衝突なされ候ことこれまた貞夫よりの事と思えばおかしく候、『おしゃべり』と申せば皆様す・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・社なれば月影のもるるは拝殿階段の辺りのみ、物すごき木の下闇を潜りて吉次は階段の下に進み、うやうやしく額づきて祈る意に誠をこめ、まず今日が日までの息災を謝し奉り、これよりは知らぬ国に渡りて軍の巷危うきを犯し、露に伏し雨風に打たるる身の上を守り・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・ よき物まいらせんとてかの君手さげの内を探りたまいしが、こはいかに宝丹を入れ置きぬと覚えしにと当惑のさまを、貴嬢は見たまいて、いなさまでに候わずとしいて取り繕わんとなしたもうがおかしく、その時もしわが顔に卑下の色の動きたりせば恕したまえ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・この日本の国体の順逆を犯した不祥の事変は日蓮の生まれるすぐ前の年のできごとであった。陪臣の身をもって、北条義時は朝廷を攻め、後鳥羽、土御門、順徳三上皇を僻陲の島々に遠流し奉ったのであった。そして誠忠奉公の公卿たちは鎌倉で審議するという名目の・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 信仰を求める誠さえ失わないならば、どんなに足を踏みすべらし、過ちを犯し、失意に陥り、貧苦と罪穢とに沈淪しようとも、必ず仏のみ舟の中での出来ごとであって、それらはみな不滅の生命――涅槃に達する真信打発の機縁となり得るのである。その他のも・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・喜劇を書いても、諷刺文学を書いても、それで、人をおかしがらせたり、面白がらせたりする意図で書くのでは、下らない。悲劇になる、痛切な、身を以て苦るしんだ、そのことを喜劇として表現し、諷刺文学として表現して、始めて、価値がある。殊に、モリエール・・・ 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
・・・人間は、罪を犯そうとする意志がなくても、知らぬ間に、自分の意識外に於て、罪を犯していることがある。彼は、どこかで以前、そういう経験をしたように思った。どこだったか、一寸思い出せなかった。小学校へ通っている時、先生から、罰を喰った。その時、悪・・・ 黒島伝治 「穴」
出典:青空文庫