・・・いよいよこの家を去ろうと心をきめてからは、押入れの中なぞも、まるで物置きのようになっていた。世界を家とする巡礼者のような心であちこちと提げ回った古い鞄――その外国の旅の形見が、まだそこに残っていた。「子供でも大きくなったら。」 私は・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ウイリイは、その朝早く起きて窓の外を見ますと、家の戸口のまん前に、昨日までそんなものは何にもなかったのに、いつのまにか、きれいな小さな家が出来ていました。ふた親もおどろいて出て見ました。上から下まできれいな彫り飾りがついたりしていて、ウイリ・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・乙、半ば飲みさしたる麦酒の小瓶を前に置き、絵入雑誌を読みいる。後対話の間に、他の雑誌と取り替うることあり。甲。アメリイさん。今晩は。クリスマスの晩だのに、そんな風に一人で坐っているところを見ると、まるで男の独者のようね。・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・ 花は起きたり臥したりしてさざなみのように舷に音をたてました。しばらくすると二人はまた白い霧に包まれました上にほんとうの波の声さえ聞こえてきました。しかし霧の上では雲雀が高くさえずっていました。「どうして雲雀は海の上なんぞで鳴くんで・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・借りて置きます。 ――すっかり、他人におなりなすったのねえ。 ――別れたら、他人だ。このハンケチ、やっぱり昔のままの、いや、犬のにおいがするね。 ――まけおしみ言わなくっていいの。思い出すでしょう? どう? ――くだらんこと・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ キクちゃんは黙って起きた。 そうして、蝋燭に火が点ぜられた。私は、ほっとした。もうこれで今夜は、何事も仕出かさずにすむと思った。「どこへ置きましょう。」「燭台は高きに置け、とバイブルに在るから、高いところがいい。その本箱の・・・ 太宰治 「朝」
・・・天にも地にも身の置きどころがないような気がする。 野から村に入ったらしい。鬱蒼とした楊の緑がかれの上に靡いた。楊樹にさし入った夕日の光が細かな葉を一葉一葉明らかに見せている。不恰好な低い屋根が地震でもあるかのように動揺しながら過ぎていく・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・母親がお前もうお起きよ、学校が遅くなるよと揺り起こす。かれの頭はいつか子供の時代に飛び返っている。裏の入江の船の船頭が禿頭を夕日にてかてかと光らせながら子供の一群に向かってどなっている。その子供の群れの中にかれもいた。 過去の面影と現在・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・しかし今一つ例の七ルウブルの一ダズンの中の古襟のあったことを思い出したから、すぐに起きて、それを捜し出して、これも窓から外へ投げた。大きな帽子を被った両棲動物奴がうるさく附き纏って、おれの膝に腰を掛けて、「テクサメエトルを下さいな」なんと云・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・と云うと、主人は、「いや、どう致しまして、一体この置き所も悪いものですから」と云った。そして、「このつれならまだいくらでもありますから、どうぞいいのを御持ち下さい」という。 一体私がこの壷を買う事に決定してから取り落してこわしたのだから・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
出典:青空文庫