・・・少くとも東京の魚河岸には、未にあの通りの事件も起るのである。 しかし洋食屋の外へ出た時、保吉の心は沈んでいた。保吉は勿論「幸さん」には、何の同情も持たなかった。その上露柴の話によると、客は人格も悪いらしかった。が、それにも関らず妙に陽気・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・「康頼は怒るのに妙を得ている。舞も洛中に並びないが、腹を立てるのは一段と巧者じゃ。あの男は謀叛なぞに加わったのも、嗔恚に牽かれたのに相違ない。その嗔恚の源はと云えば、やはり増長慢のなせる業じゃ。平家は高平太以下皆悪人、こちらは大納言以下・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・ なるほどこう云われて見ると、権助が怒るのももっともです。「いえ、暖簾に嘘がある次第ではありません。何でも仙人になれるような奉公口を探せとおっしゃるのなら、明日また御出で下さい。今日中に心当りを尋ねて置いて見ますから。」 番頭は・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・「遊んでいて飯が食えると自由自在にそんな気持ちも起こるだろうな」 何を太平楽を言うかと言わんばかりに、父は憎々しく皮肉を言った。「せめては遊びながら飯の食えるものだけでもこんなことを言わなければ罰があたりますよ」 彼も思わず・・・ 有島武郎 「親子」
・・・何もさ、そう怒るがものは無えんだ。巡的だってあの大きな図体じゃ、飯もうんと食うだろうし、女もほしかろう。「お前もか。己れもやっぱりお前と同じ先祖はアダムだよ」とか何とか云って見ろ。己れだって粗忽な真似はし無えで、兄弟とか相棒とか云って、皮の・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・それでも私はもう怒る勇気はなかった。引きはなすようにしてお前たちを母上から遠ざけて帰路につく時には、大抵街燈の光が淡く道路を照していた。玄関を這入ると雇人だけが留守していた。彼等は二三人もいる癖に、残しておいた赤坊のおしめを代えようともしな・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・――すぐこの階のもとへ、灯ともしの翁一人、立出づるが、その油差の上に差置く、燈心が、その燈心が、入相すぐる夜嵐の、やがて、颯と吹起るにさえ、そよりとも動かなかったのは不思議であろう。 啾々と近づき、啾々と進んで、杖をバタリと置いた。・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・……夜になって、炎天の鼠のような、目も口も開かない、どろどろで帰って来た、三人のさくらの半間さを、ちゃら金が、いや怒るの怒らないの。……儲けるどころか、対手方に大分の借が出来た、さあどうする。……で、損料……立処に損料を引剥ぐ。中にも落第の・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・小児三 だって、兄さん怒るだろう。画工 俺が怒る、何を……何を俺が怒るんだ。生命がけで、描いて文部省の展覧会で、平つくばって、可いか、洋服の膝を膨らまして膝行ってな、いい図じゃないぜ、審査所のお玄関で頓首再拝と仕った奴を、紙鉄砲で、・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・君が朝鮮へ行って農業をやりたいというのは、どういう意味かよくわからないが、僕はただしばらくでも精神の安静が得たく、帰農の念がときどき起こるのである。しかし帰農したらば安静を得られようと思うのが、あるいは一時の懊悩から起こるでき心かもしれない・・・ 伊藤左千夫 「去年」
出典:青空文庫