・・・無限上に徹する大空を鋳固めて、打てば音ある五尺の裏に圧し集めたるを――シャロットの女は夜ごと日ごとに見る。 夜ごと日ごとに鏡に向える女は、夜ごと日ごとに鏡の傍に坐りて、夜ごと日ごとのはたを織る。ある時は明るきはたを織り、ある時は暗きはた・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ベルを押し、請ぜられて応接間に入り、暫く待っていた。無論応接間の様子などユンケル氏のそれと似もつかぬのであるが、それでも自分には少しも気がつかなかった、全くユンケル氏の応接間に入っているつもりでいた。その中エスさんが二階から降りて来られた。・・・ 西田幾多郎 「アブセンス・オブ・マインド」
・・・と、一人の男が一体どこから飛び出したのか、危く打つかりそうになるほどの近くに突っ立って、押し殺すような小さな声で呻くように云った。「ピー、カンカンか」 私はポカンとそこへつっ立っていた。私は余り出し抜けなので、その男の顔を穴のあく程・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・「公園に行こうね、おしゃるしゃんとあそぼうね」 子供は、吉田の首に噛りついたまま、おしゃるしゃんと遊ぶことを夢に見ながら、再び眠った。 中村は「困るなあ、困るなあ」と呟きながら、品物でも値切るように、クドクドと吉田を口説いた・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・ 吉里はわざとつんとして、「あんまり馬鹿におしなさんなよ。そりゃ昔のことですのさ」「そう諦めててくれりゃア、私も大助かりだ。あいたたた。太股ふッつりのお身替りなざア、ちとありがた過ぎる方だぜ。この上臂突きにされて、ぐりぐりでも極めら・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・と、吉里は幾たびとなく念を押して西宮をうなずかせ、はアッと深く息を吐いて涙を拭きながら、「兄さんでも来て下さらなきゃア、私ゃ生きちゃアいませんよ」「よろしい、よろしい」と、西宮はうなずきながら、「平田の方は断念ッてくれるね。私もお前さん・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・時に自から省みて聊か不愉快を感ずるもまた人生の至情に免かるべからざるところなれば、その心事を推察するに、時としては目下の富貴に安んじて安楽豪奢余念なき折柄、また時としては旧時の惨状を懐うて慙愧の念を催おし、一喜一憂一哀一楽、来往常ならずして・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・独鈷鎌首水かけ論の蛙かな苗代の色紙に遊ぶ蛙かな心太さかしまに銀河三千尺夕顔のそれは髑髏か鉢叩蝸牛の住はてし宿やうつせ貝 金扇に卯花画白かねの卯花もさくや井出の里鴛鴦や国師の沓も錦革あたまから蒲団かぶ・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・これによれば彼が生存せし間は俳名の画名を圧したらんかとも思わるれど、その歿後今日に至るまでは画名かえって俳名を圧したること疑うべからざる事実なり。余らの俳句を学ぶや類題集中蕪村の句の散在せるを見てややその非凡なるを認めこれを尊敬すること深し・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・妻子珍宝及王位、臨命終時不随者というので御釈迦様はすました者だけれど、なかなかそうは覚悟しても居ないから凡夫の御台様や御姫様はさぞ泣きどおしで居られるであろう。可哀想に、華族様だけは長いきさせてあげても善いのだが、死に神は賄賂も何も取らない・・・ 正岡子規 「墓」
出典:青空文庫