・・・それこそ、まるで滝のよう、額から流れ落ちる汗は、一方は鼻筋を伝い、一方はこめかみを伝い、ざあざあ顔中を洗いつくして、そうしてみんな顎を伝って胸に滑り込み、その気持のわるさったら、ちょうど油壺一ぱいの椿油を頭からどろどろ浴びせかけられる思いで・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ 「鞍山站は落ちたですか」 「一昨日落ちた。敵は遼陽の手前で、一防禦やるらしい。今日の六時から始まったという噂だ!」 一種の遠いかすかなるとどろき、仔細に聞けばなるほど砲声だ。例の厭な音が頭上を飛ぶのだ。歩兵隊がその間を縫って進・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・絃の音は、前よりも高くふるえて、やがて咽ぶように落ち入る。 ヴァイオリンの音の、起伏するのを受けて、山彦の答えるように、かすかな、セロのような音が響いて来る。それが消えて行くのを、追い縋りでもするように、またヴァイオリンの高音が響いて来・・・ 寺田寅彦 「秋の歌」
・・・此方とらの餓鬼が、屋根から落ちて死んだって、誰方か何といって下さるものけえ。 その日、初頼という方が、持って来た下すった香奠が、将校方から十五円、兵士一同から二十円……これは皆さんが各々の気心で下すったもので、兵士方は上官から御内意があ・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・彼らの一人大石誠之助君がいったというごとく、今度のことは嘘から出た真で、はずみにのせられ、足もとを見る暇もなく陥穽に落ちたのか、どうか、僕は知らぬ。舌は縛られる、筆は折られる、手も足も出ぬ苦しまぎれに死物狂になって、天皇陛下と無理心中を企て・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・古井戸の前には見るから汚らしい古手拭が落ちて居た。私は昔水戸家へ出入りしたとか云う頭の清五郎に手を引かれて、生れて始めて、この古庭の片隅、古井戸のほとりを歩いたのであった。古井戸の傍に一株の柳がある。半ば朽ちた其幹は黒い洞穴にうがたれ、枯れ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・澁い枳の実は霜の降る度に甘くなって、軈て四十雀のような果敢ない足に踏まれても落ちるようになる。幼いものは竹藪へつけこんでは落ち葉に交って居る不格好な実を拾っては噛むのである。太十も疱瘡に罹るまでは毎日懐へ入れた枳の実を噛んで居た。其頃はすべ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・左右に開く廻廊には円柱の影の重なりて落ちかかれども、影なれば音もせず。生きたるは室の中なる二人のみと思わる。「北の方なる試合にも参り合せず。乱れたるは額にかかる髪のみならじ」と女は心ありげに問う。晴れかかりたる眉に晴れがたき雲の蟠まりて・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ それからまた眠りに落ち、公園のベンチの上でそのまま永久に死んでしまった。丁度昔、彼が玄武門で戦争したり、夢の中で賭博をしたりした、憐れな、見すぼらしい日傭人の支那傭兵と同じように、そっくりの様子をして。・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・そして、石と恋人の体とは砕け合って、赤い細い石になって、ベルトの上へ落ちました。ベルトは粉砕筒へ入って行きました。そこで鋼鉄の弾丸と一緒になって、細く細く、はげしい音に呪の声を叫びながら、砕かれました。そうして焼かれて、立派にセメントとなり・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
出典:青空文庫