・・・ 遠藤は妙子の手紙を見てから、一時は往来に立ったなり、夜明けを待とうかとも思いました。が、お嬢さんの身の上を思うと、どうしてもじっとしてはいられません。そこでとうとう盗人のように、そっと家の中へ忍びこむと、早速この二階の戸口へ来て、さっ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ 叔母がこう云って出て行くと、洋一も欠伸を噛み殺しながら、やっと重い腰を擡げた。「僕も一寝入りして来るかな。」 慎太郎は一人になってから、懐炉を膝に載せたまま、じっと何かを考えようとした。が、何を考えるのだか、彼自身にもはっきり・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・三人はそうした波の様子を見ると少し気味悪くも思いました。けれども折角そこまで来ていながら、そのまま引返すのはどうしてもいやでした。で、妹に帽子を脱がせて、それを砂の上に仰向けにおいて、衣物やタオルをその中に丸めこむと私たち三人は手をつなぎ合・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・赤坊の泣き続ける暗闇の中で仁右衛門が馬の背からどすんと重いものを地面に卸す音がした。痩馬は荷が軽るくなると鬱積した怒りを一時にぶちまけるように嘶いた。遙かの遠くでそれに応えた馬があった。跡は風だけが吹きすさんだ。 夫婦はかじかんだ手で荷・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・あの鼠色の寐惚けたような目を見ては、今起きて出た、くちゃくちゃになった寝牀を想い浮べずにはいられない。あのジャケツの胸を見ては、あの下に乳房がどんな輪廓をしているということに思い及ばずにはいられない。そんな工合に、目や胸を見たり、金色の髪の・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ais jamais, que ma fille s'adonnt une occupation si cruelle.”「宅の娘なんぞは、どんなことがあっても、あんな無慈悲なことをさせようとは思いません」と云ったのである。 小娘・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・その時百姓は穿いて居る重い長靴を挙げて、犬の腋腹を蹴た。「ええ。畜生奴、うぬまで己の側へ来やがるか。」犬は悲しげに啼いた。これはさ程痛かったためではないが、余り不意であったために泣いたのだ。さて百姓は蹣跚きながら我家に帰った。永い間女房・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・それは今まで自分の良い人だと思った人が、自分に種々迷惑をかけたり、自分を侮辱したりした事があると思い出したのだ、それで心持が悪くなって訳もなく腹を立って来た。シュッチュカは次第に側へ寄って来た。その時百姓は穿いて居る重い長靴を挙げて、犬の腋・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・昨夜は隣の室で女の泣くのを聞きながら眠ったっけが、今夜は何を聞いて眠るんだろうと思いながら行くんだ。初めての宿屋じゃ此方の誰だかをちっとも知らない。知った者の一人もいない家の、行燈か何かついた奥まった室に、やわらかな夜具の中に緩くり身体を延・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ そうしてるうちに、一時脱れていた重い責任が、否応なしにふたたび私の肩に懸ってきた。 いろいろの事件が相ついで起った。「ついにドン底に落ちた」こういう言葉を心の底からいわねばならぬようなことになった。 と同時に、ふと、今まで・・・ 石川啄木 「弓町より」
出典:青空文庫