・・・おれだっておめえと同じ事だ。まずい商売だよ。競争者が多過ぎるのだ。お得意の方で、もう追っ附かなくなっている。おれなんぞはいろんな事をやってみた。恥かしくて人に手を出すことの出来ない奴の真似をして、上等の料理屋や旨い物店の硝子窓の外に立ってい・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・古への礼に男女は席を同くせず、衣裳をも同処に置ず、同じ所にて浴せず、物を受取渡す事も手より手へ直にせず、夜行時は必ず燭をともして行べし、他人はいふに及ばず夫婦兄弟にても別を正くすべしと也。今時の民家は此様の法をしらずして行規を乱にして名を穢・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・人事の失望は十に八、九、弟は兄の勝手に外出するを羨み、兄は親爺の勝手に物を買うを羨み、親爺はまた隣翁の富貴自在なるを羨むといえども、この弟が兄の年齢となり、兄が父となり、親爺が隣家の富を得るも、決して自由自在なるに非ず、案に相違の不都合ある・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・は能く人を殺すといえることを以て意と為したる小説あらんに、其の本尊たる男女のもの共に浮気の性質にて、末の松山浪越さじとの誓文も悉皆鼻の端の嘘言一時の戯ならんとせんに、末に至って外に仔細もなけれども、只親仁の不承知より手に手を執って淵川に身を・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・主人の美術定義を拡充して之を小説に及ぼせばとて同じ事なり。抑々小説は浮世に形われし種々雑多の現象の中にて其自然の情態を直接に感得するものなれば、其感得を人に伝えんにも直接ならでは叶わず。直接ならんとには摸写ならでは叶わず。されば摸写は小説の・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・それから給仕は来た時と同じように静かに謹んで跡へ戻って、書斎の戸を締めた。開いた本を閉じたほどの音もさせなかったのである。 ピエエル・オオビュルナンは構わずに、ゆっくり物を書いている。友人等はこの男を「先生」と称している。それには冷かす・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
為事室。建築はアンピイル式。背景の右と左とに大いなる窓あり。真中に硝子の扉ありてバルコンに出づる口となりおる。バルコンよりは木の階段にて庭に降るるようなりおる。左には広き開き戸あり。右にも同じ戸ありて寝間に通じ、この分は緑の天鵞絨の・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・徳川時代にては俳句まず客観的叙述において空前の進歩をなし、和歌もまたようやくに同じ傾向を現ぜり。されども歌人皆頑陋褊狭にして古習を破るあたわず、古人の用い来りし普通の材料題目の中にてやや変化を試みしのみ。曙覧、徳川時代の最後に出でて、始めて・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・四十近くでは若旦那でもない訳だが、それは六十に余る達者な親父があって、その親父がまた慾ばりきったごうつくばりのえら者で、なかなか六十になっても七十になっても隠居なんかしないので、立派な一人前の後つぎを持ちながらまだ容易に財産を引き渡さぬ、そ・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
序ぼくは農学校の三年生になったときから今日まで三年の間のぼくの日誌を公開する。どうせぼくは字も文章も下手だ。ぼくと同じように本気に仕事にかかった人でなかったらこんなもの実に厭な面白くもないものにちがいな・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
出典:青空文庫