・・・麓の家で方々に白木綿を織るのが轡虫が鳴くように聞える。廊下には草花の床が女帯ほどの幅で長く続いている。二三種の花が咲いている。水仙の一と株に花床が尽きて、低い階段を拾うと、そこが六畳の中二階である。自分が記念に置いて往った摺絵が、そのままに・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・佐吉さんの兄さんとは私も逢ったことがあり、なかなか太っ腹の佳い方だし、佐吉さんは家中の愛を独占して居るくせに、それでも何かと不平が多い様で、家を飛出し、東京の私の下宿へ、にこにこ笑ってやって来た事もありました。さまざま駄々をこねて居たようで・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ その夜は、それから矢島さんたちは紙の闇取引の商談などして、お帰りになったのは十時すぎで、私も今夜は雨も降るし、夫もあらわれそうもございませんでしたので、お客さんがまだひとり残っておりましたけれども、そろそろ帰り支度をはじめて、奥の六畳・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・釣竿を折る。鴎が魚を盗みおった。メルシイ、マダム。おや、口笛が。――なんのことだか、わからない。まるで、出鱈目である。これが、小説の筋書である。朝になると、けろりと忘れている百千の筋書のうちの一つである。それからそれと私は、筋書を、いや、模・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・これが雨が一日降ると、壁土のように柔らかくなって、靴どころか、長い脛もその半ばを没してしまうのだ。大石橋の戦争の前の晩、暗い闇の泥濘を三里もこねまわした。背の上から頭の髪まではねが上がった。あの時は砲車の援護が任務だった。砲車が泥濘の中に陥・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・生殖を営んで居る間の衰えということをある時つくづく感じたことがあった。 花曇り、それが済んで、花を散らす風が吹く。その後に晩春の雨が降る。この雨は多く南風を伴って来る。昨日の花、この為めに凋落し尽すという恨はあるが、何となく思を取集めて・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・するとベルリン大学に居る屈指の諸大家は、一方アインシュタインをなだめると同時に、連名で新聞へ弁明書を出し、彼に対する攻撃の不当な事を正し、彼の科学的貢献の偉大な事を保証した。またアインシュタインは進まなかったらしいのを、すすめて自身の弁明書・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・松本から島々までの電車でも時々降るかと思うとまた霽れたりしていた。行手の連峰は雨雲の底面でことごとくその頂を切り取られて、山々はただ一面に藍灰色の帷帳を垂れたように見えている。その幕の一部を左右に引きしぼったように梓川の谿谷が口を開いている・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・に作り、それを紺屋に渡して染めさせたのを手機に移して織るのであった。裏の炊事場の土間の片すみにこしらえた板の間に手機が一台置いてあった。母がそれに腰をかけて「ちゃんちゃんちゃきちゃん」というこれもまた四拍子の拍音を立てながら織っている姿がぼ・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・肺炎になってしまってからの愛児の看護に骨を折るよりも、風邪を引かせぬ予防法、引いたときに昂じさせぬ工夫に一倍の頭を使う方が合理的である。 凶作の原因は大体においては明白である。稲の正当な発育には一定量の日照並びに気温の積分的作用が必要で・・・ 寺田寅彦 「新春偶語」
出典:青空文庫