・・・ 僕のこう尋ねた時にはMはもう湯帷子を引っかけ、僕の隣に腰を下ろしていた。「何、水母にやられたんだ。」 海にはこの数日来、俄に水母が殖えたらしかった。現に僕もおとといの朝、左の肩から上膊へかけてずっと針の痕をつけられていた。・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・ 子爵の言につれて我々は、陳列室のまん中に据えてあるベンチへ行って、一しょに腰を下ろした。室内にはもう一人も人影は見えなかった。ただ、周囲には多くの硝子戸棚が、曇天の冷い光の中に、古色を帯びた銅版画や浮世絵を寂然と懸け並べていた。本多子・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ 僕は葉巻を銜えたまま、舟ばたの外へ片手を下ろし、時々僕の指先に当る湘江の水勢を楽しんでいた。譚の言葉は僕の耳に唯一つづりの騒音だった。しかし彼の指さす通り、両岸の風景へ目をやるのは勿論僕にも不快ではなかった。「この三角洲は橘洲と言・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・ 北風は長い坂の上から時々まっ直に吹き下ろして来た。墓地の樹木もその度にさあっと葉の落ちた梢を鳴らした。僕はこう言う薄暗がりの中に妙な興奮を感じながら、まるで僕自身と闘うように一心に箱車を押しつづけて行った。………・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
・・・――織次は、飛脚に買去られたと言う大勢の姉様が、ぶらぶらと甘干の柿のように、樹の枝に吊下げられて、上げつ下ろしつ、二股坂で苛まれるのを、目のあたりに見るように思った。 とやっぱり芬とする懐中の物理書が、その途端に、松葉の燻る臭気がし出し・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・そこにて吻と呼吸して、さるにても何にかあらんとわずかに頭を擡ぐれば、今見し処に偉大なる男の面赤きが、仁王立ちに立はだかりて、此方を瞰下ろし、はたと睨む。何某はそのまま気を失えりというものこれなり。 毛だらけの脚にて思出す。以前読みし何と・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・し半纏という処を、めくら縞の筒袖を両方大肌脱ぎ、毛だらけの胸へ、釣身に取って、尾を空に、向顱巻の結びめと一所に、ゆらゆらと刎ねさせながら、掛声でその量を増すように、魚の頭を、下腹から膝頭へ、じりじりと下ろして行くが、「しゃッ、しゃッ。」・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・蔦をその身に絡めたるまま枯木は冷然として答えもなさず、堤防の上につと立ちて、角燈片手に振り翳し、水をきっと瞰下ろしたる、ときに寒冷謂うべからず、見渡す限り霜白く墨より黒き水面に烈しき泡の吹き出ずるは老夫の沈める処と覚しく、薄氷は亀裂しおれり・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ この種子を土に下ろした日から、花の咲く日が待たれました。その年も暮れて、やがて翌年の春となったのであります。「お母さん、南アメリカの温かいところに育つ花ですから、こちらでは咲かないかもしれませんね。」と、のぶ子は、ある日、お母さま・・・ 小川未明 「青い花の香り」
・・・そして、いつかまりの隠れていたやぶの中へ、そっと降ろしてくれました。「まりさん、お達者にお暮らしなさい。さようなら……。」と、雲は、名残惜しげに別れを告げました。「ありがとうございました。」と、まりは、お礼をいいました。 やがて・・・ 小川未明 「あるまりの一生」
出典:青空文庫