・・・ 時にはその大きくあいた口の横わきをさも痒いようなふりをして指でこすりながらはあはあ息だけで笑いました。 なるほど遠くから見ると虔十は口の横わきを掻いているか或いは欠伸でもしているかのように見えましたが近くではもちろん笑っている息の・・・ 宮沢賢治 「虔十公園林」
・・・或る箱の葭簀の下では支那らんちゅうの目の醒めるようなのが魁偉な尾鰭を重々しく動かしていた。葭簀を洩れた日光が余り深くない水にさす。異様に白く、或は金焔色に鱗片が燦めき、厚手に装飾的な感じがひろ子に支那の瑪瑙や玉の造花を連想させた。「なあ・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・ 不図太鼓の音が南京虫にくわれて痒い耳についた。ドーン、ドン。ドン、ドン……段々近づいて来るのをきくと、それはキリスト教の伝道であった。益々早く太鼓をうち、何とかして、 信ずるものは誰れェも みィな救ゥくわるゥ 急に止っ・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・この軍事的教育はついこの間までの日本にも怪異のように存在した。頭を切り取ったその代りに鉄兜をのせられたような人間の生存で、どうして文学という人間らしいうちにも人間らしい創造が行われよう。自分が自分の心の主人であることさえ認められない時代には・・・ 宮本百合子 「女性の歴史」
・・・ 皆の者は、そのうす汚れた布片れにくるんであった、赤錆のついた鉄棒か斧が、真暗の湯殿に立って、若し誰でも来たらと身構えて居る男の背後にかくされてある様子を思うと、ほんとに背骨の一番とっぽ先が、痛痒い様な感じを起して来る。 若し自分で・・・ 宮本百合子 「盗難」
・・・その中へ毎晩のように、容貌魁偉な大男が、湯帷子に兵児帯で、ぬっとはいって来るのを見る。これが陸軍少将畑閣下である。 畑は快男子である。戦略戦術の書を除く外、一切の書を読まない。浄瑠璃を聞いても、何をうなっているやらわからない。それが不思・・・ 森鴎外 「余興」
・・・ と栖方は低く笑いながら、額に日灼けの条の入った頭を痒いた。狂人の寝言のように無雑作にそう云うのも、よく聞きわけて見ると、恐るべき光線の秘密を呟いているのだった。「僕は動物の心臓というものに興味が出て来ましたよ。どうも、いろいろ心臓・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫