・・・ 松山へ来てから二月余り後、左近はその甲斐があって、ある日城下に近い海岸を通りかかると、忍駕籠につき添うた二人の若党が、漁師たちを急がせて、舟を仕立てているのに遇った。やがて舟の仕度が出来たと見えて、駕籠の中の侍が外へ出た。侍はすぐに編・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・姉は上眼を使いながら、笄で髷の根を掻いていたが、やがてその手を火鉢へやると、「神山さんが帰って来た事は云わなかったの?」と云った。「云わない。姉さんが行って云うと好いや。」 洋一は襖側に立ったなり、緩んだ帯をしめ直していた。どん・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・が、果して寝室の中には、飼い馴れた三毛猫の姿さえ見えない。やはり人がいるような気がしたのは、病的な神経の仕業であった。――と思ったのはしかし言葉通り、ほんの一瞬の間だけである。房子はすぐにまた前の通り、何か眼に見えない物が、この部屋を満たし・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・少女は実際部屋の窓に、緑色の鸚鵡を飼いながら、これも去年の秋幕の陰から、そっと隙見をした王生の姿を、絶えず夢に見ていたそうである。「不思議な事もあればあるものだ。何しろ先方でもいつのまにか、水晶の双魚の扇墜が、枕もとにあったと云うのだか・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・「あるいはこれも、己の憐憫を買いたくないと云う反抗心の現れかも知れない。」――己はまたこうも考えた。そうしてそれと共に、この嘘を暴露させてやりたい気が、刻々に強く己へ働きかけた。ただ、何故それを嘘だと思ったかと云われれば、それを嘘だと思った・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・そうしてその秋山図よりも、おそらくは下位にある黄一峯です。 私の周囲には王氏を始め、座にい合せた食客たちが、私の顔色を窺っていました。ですから私は失望の色が、寸分も顔へ露われないように、気を使う必要があったのです。が、いくら努めてみても・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
・・・道士は、顔を李と反対の方に向けて、雨にたたかれている廟外の枯柳をながめながら、片手で、しきりに髪を掻いている。顔は見えないが、どうやら李の心もちを見透かして、相手にならずにいるらしい。そう思うと、多少不快な気がしたが、自分の同情の徹しないと・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・の顔のまわりを飛びめぐり始めた。「てつ」ははっとして目を醒ました。火の玉はもちろんその時にはもうどこかへ消え失せていた。しかし「てつ」の信ずるところによればそれは四、五日前に死んだ「てつ」の飼い猫の魂がじゃれに来たに違いないというのだった。・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・――泰さんは苦笑しながら、その蛇の目を受取ると、小僧は生意気に頭を掻いてから、とってつけたように御辞儀をして、勢いよく店の方へ駈けて行ってしまいました。そう云えば成程頭の上にはさっきよりも黒い夕立雲が、一面にむらむらと滲み渡って、その所々を・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・お婆様は気丈な方で甲斐々々しく世話をすますと、若者に向って心の底からお礼をいわれました。若者は挨拶の言葉も得いわないような人で、唯黙ってうなずいてばかりいました。お婆様はようやくのことでその人の住っている所だけを聞き出すことが出来ました。若・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
出典:青空文庫