・・・ほど脆いはござらぬ女を説くは知力金力権力腕力この四つを除けて他に求むべき道はござらねど権力腕力は拙い極度、成るが早いは金力と申す条まず積ってもごろうじろわれ金をもって自由を買えば彼また金をもって自由を買いたいは理の当然されば男傾城と申すもご・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・そればかりでなく、子供にあてがう菓子も自分で町へ買いに出たし、子供の着物も自分で畳んだ。 この私たちには、いつのまにか、いろいろな隠し言葉もできた。「あゝ、また太郎さんが泣いちゃった。」 私はよくそれを言った。少年の時分にはあり・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・あれほどおげんは頼み甲斐のない旦那から踏みにじられたように思いながらも、自分の前に手をついて平あやまりにあやまる旦那を眼前に見、やさしい声の一つも耳に聞くと、つい何もかも忘れて旦那を許す気にもなった。おげんが年若な伜の利発さに望みをかけ、温・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・つまり名といい、利といい、身といい、家という、無形、有形、単純、複雑の別はあっても、詮ずるところ自己の生という中心意義を離れては、道徳も最後の一石に徹しない。直観道学はそれを打ち消して利己以上の発足点を説こうけれども、自分らの知識は、どうも・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・簪で髪の中を掻いているのである。 裏では初やが米を搗く。 自分は小母さんたちと床を列べて座敷へ寝る。 枕が大きくて柔かいから嬉しいと言うと、この夏にはうっかりしていたが、あんな枕では頭に悪いからと小母さんがいう。藤さんはこの・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・肉屋は町中の人々や、買いものに来たお客たちに一々その犬の話をして聞かせました。すると、だれもかれも、「へえ。」と感心して、犬を見入ったり、くびをなでたりしていきます。犬はやはり夕方まで店の番をつづけました。肉屋はきょうは肉の分量を少しお・・・ 鈴木三重吉 「やどなし犬」
・・・博士は、花屋へ、たいへんな決意を以て突入して、それから、まごつき、まごつき、大汗かいて、それでも、薔薇の大輪、三本買いました。ずいぶん高いのには、おどろきました。逃げるようにして花屋から躍り出て、それから、円タク拾って、お宅へ、まっしぐら。・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・大将は、左手で盃を口に運びながら、右手の小指で頭を掻いた。「委せられております。」「うむ。」先生は深くうなずいた。 それから先生と大将との間に頗る珍妙な商談がはじまった。私は、ただ、はらはらして聞いていた。「ゆずってくれるでしょ・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・怒る時に怒らなければ、人間の甲斐がありません。私は今まであの人を、どんなにこっそり庇ってあげたか。誰も、ご存じ無いのです。あの人ご自身だって、それに気がついていないのだ。いや、あの人は知っているのだ。ちゃんと知っています。知っているからこそ・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・ラヴ・インポテンス。飼い馴らされた卑屈。まるで、白痴にちかかった。二十世紀のお化け。鬚の剃り跡の青い、奇怪の嬰児であった。 とみにとんと背中を押されて、よろめき、資生堂へはいった。ボックスにふたり向い合って坐ったら、ほかの客が、ちらちら・・・ 太宰治 「花燭」
出典:青空文庫