・・・二人は苦しい焦燥の中に、三年以前返り打に遇った左近の祥月命日を迎えた。喜三郎はその夜、近くにある祥光院の門を敲いて和尚に仏事を修して貰った。が、万一を慮って、左近の俗名は洩らさずにいた。すると寺の本堂に、意外にも左近と平太郎との俗名を記した・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・俺はあのオオクションへ行った帰りに租界の並み木の下を歩いて行った。並み木の槐は花盛りだった。運河の水明りも美しかった。しかし――今はそんなことに恋々としている場合ではない。俺は昨夜もう少しで常子の横腹を蹴るところだった。……「十一月×日・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・が、いよいよ電燈を消して見ると、何度か寝反りを繰り返しても、容易に睡気を催さなかった。 彼の隣には父の賢造が、静かな寝息を洩らしていた。父と一つ部屋に眠るのは、少くともこの三四年以来、今夜が彼には始めてだった。父は鼾きをかかなかったかし・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 私たち三人は濡れたままで、衣物やタオルを小脇に抱えてお婆様と一緒に家の方に帰りました。若者はようやく立上って体を拭いて行ってしまおうとするのをお婆様がたって頼んだので、黙ったまま私たちのあとから跟いて来ました。 家に着くともう妹の・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・そして静かに身の来し方を返り見た。 幼い時からクララにはいい現わし得ない不満足が心の底にあった。いらいらした気分はよく髪の結い方、衣服の着せ方に小言をいわせた。さんざん小言をいってから独りになると何んともいえない淋しさに襲われて、部屋の・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・それは百姓で、酒屋から家に帰りかかった酔漢であった。この男は目にかかる物を何でも可哀がって、憐れで、ああ人間というものは善いものだ、善い人間が己れのために悪いことをするはずがない、などと口の中で囁く癖があった。この男がたまたま酒でちらつく目・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 伝え聞く、摩耶山とうりてんのうじ夫人堂の御像は、その昔梁の武帝、女人の産に悩む者あるを憐み、仏母摩耶夫人の影像を造りて大功徳を修しけるを、空海上人入唐の時、我が朝に斎き帰りしものとよ。 知ることの浅く、尋ぬること怠るか、はたそれ詣・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ と仰向けに目をぐっと瞑り、口をひょっとこにゆがませると、所作の棒を杖にして、コトコトと床を鳴らし、めくら反りに胸を反らした。「按摩かみしも三百もん――ひけ過ぎだよ。あいあい。」 あっと呆気に取られていると、「鉄棒の音に目を・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・と反りかえった掛声をして、(みどり屋、ゆき。――荷は千葉と。――ああ、万翠楼だ。……医師と遁げた、この別嬪さんの使ですかい、きみは。……ぼくは店用で行って知ってるよ。……果報ものだね、きみは。……可愛がってくれるだろう。雪白肌の透綾・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・舟津の磯の黒い大石の下へ予の舟は帰りついた。老爺も紅葉の枝を持って予とともにあがってくる。意中の美人はねんごろに予を戸口にむかえて予の手のものを受けとる。見かけによらず如才ない老爺は紅葉を娘の前へだし、これごろうじろ、この紅葉の美しさ、お客・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
出典:青空文庫