・・・は死骸の身に絡った殊にそれが肺結核の患者であったのを、心得ある看護婦でありながら、記念にと謂って強いて貰い受けて来て葛籠の底深く秘め置いたが、菊枝がかねて橘之助贔屓で、番附に記した名ばかり見ても顔色を変える騒を知ってたので、昨夜、不動様の参・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・織次は小児心にも、その絵を売って金子に代えるのである、と思った。……顔馴染の濃い紅、薄紫、雪の膚の姉様たちが、この暗夜を、すっと門を出る、……と偶と寂しくなった。が、紅、白粉が何んのその、で、新撰物理書の黒表紙が、四冊並んで、目の前で、ひょ・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・経帷子にでも着換えるのか、そんな用意はねえすべい。……井戸川で凍死でもさせる気だろう。しかしその言の通りにすると、蓑を着よ、そのようなその羅紗の、毛くさい破帽子などは脱いで、菅笠を被れという。そんで、へい、苧殻か、青竹の杖でもつくか、と聞く・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・なまじ紹介状があるだけに、喧嘩面で、宿を替えるとも言われない。前世の業と断念めて、せめて近所で、蕎麦か饂飩の御都合はなるまいか、と恐る恐る申し出ると、饂飩なら聞いてみましょう。ああ、それを二ぜん頼みます。女中は遁げ腰のもったて尻で、敷居へ半・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・先生、――「座敷を別に、ここに忍んで、その浮気を見張るんだけれど、廊下などで不意に見附かっては不可いから、容子を変えるんだ。」とそう言って、……いきなり鏡台で、眉を落して、髪も解いて、羽織を脱いでほうり出して、帯もこんなに(なよやかに、頭あ・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・いろいろさまざまの妄想が、狭い胸の中で、もやくやもやくや煮えくり返る。暖かい夢を柔らかなふわふわした白絹につつんだように何ともいえない心地がするかと思うと、すぐあとから罪深い恐ろしい、いやでたまらない苦悶が起こってくる。どう考えたっておとよ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・暮にも帰るまいと思ったけれど、年の暮だから一日でも二日でも帰れというて母から手紙がきた故、大三十日の夜帰ってきた。お増も今年きりで下ったとの話でいよいよ話相手もないから、また元日一日で二日の日に出掛けようとすると、母がお前にも言うて置くが民・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・平生顔の色など変える人ではないけれど、今日はさすがに包みかねて、顔に血の気が失せほとんど白蝋のごとき色になった。 自分ひとりで勝手な考えばかりしてる父はおとよの顔色などに気はつかぬ、さすがに母は見咎めた。「おとよ、お前どうかしたのか・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・どうせ、無事に帰るつもりは無いて、細君を離縁する云い出し、自分の云うことを承知せんなら、露助と見て血祭りにする云うて、剣を抜いて追いまわしたんや。」 こう云って、友人は鳥渡僕から目を離して、猪口に手をかけた。僕も一杯かさねてから、「・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・と、僕がちょっと吉弥に当って、お君をふり返ると、お君は黙って下を向いた。「あたいがいるのがいけなけりゃア、いつからでも出すがいい。へん、去年身投げをした芸者のような意気地なしではない。死んだッて、化けて出てやらア。高がお客商売の料理屋だ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
出典:青空文庫