・・・畑の中に百姓屋めいた萱屋の寺はあわれにさびしい、せめて母の記念の松杉が堂の棟を隠すだけにのびたらばと思う。 姉がまず水をそそいで、皆がつぎつぎとそそぐ。線香と花とを五つに分けて母の石塔にまで捧げた。姉夫婦も無言である、予も無言である。・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・僕の精神状態がいつの間にか変化してきたは、隠すことの出来ない事実である。この日初めて民子を女として思ったのが、僕に邪念の萌芽ありし何よりの証拠じゃ。 民子が体をくの字にかがめて、茄子をもぎつつあるその横顔を見て、今更のように民子の美しく・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・この道は暗緑色の草がほとんど土を隠す程茂っていて、その上に荷車の通った轍の跡が二本走っている。 薄ら寒い夏の朝である。空は灰色に見えている。道で見た二三本の立木は、大きく、不細工に、この陰気な平地に聳えている。丁度森が歩哨を出して、それ・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ お姫さまは、だれも気のつかないうちに、あちらの島へ身を隠すことになさいました。ある日のこと三人の侍女とともに、たくさんの金銀を船に積まれました。そして、赤い着物をきたお姫さまは、その船におすわりになりました。 青い海を、静かに、船・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・ 彼はせめて貨車の中にでも身を隠すことができたら、幸福だと考えましたので、人目をしのんで、貨車に乗り込もうとしますと、中から、思いがけなく、「だれだ?」と声がしました。そして大男が龍雄をとらえました。龍雄はもう逃れる途はないと知・・・ 小川未明 「海へ」
・・・もう病気のことを隠すわけにはいかなかった。「……実は病気をしておりますので。空気の流通をよくしなければいけないんです」 すると、女の顔に思いがけぬ生気がうかんだ。「やっぱり御病気でしたの。そやないかと思てましたわ。――ここですか・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ 天の賜とは実にこの事と、無上によろこび、それから二百円を入れたままの革包を隠す工夫に取りかかった。然し元来狭い家だから別に安全な隠くし場の有ろう筈がない。思案に尽きて終に自分の書類、学校の帳簿などばかり入て置く箪笥の抽斗に入れてその上・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・しかし主人の耳にも浄瑠璃なんどに出る忠臣という語に連関して聞えたか、「話せッて云ったって、隠すのじゃ無いが、おんなわらべの知る事ならずサ。」 浄瑠璃の行われる西の人だったから、主人は偶然に用いた語り物の言葉を用いたのだが、同じく西の・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・そういうところへ誰かが出て来ると、さあ周章て鉄砲を隠す、本を繰る、生憎開けたところと読んで居るところと違って居るのが見あらわされると大叱言を頂戴した。ああ、左様々々、まだ其頃のことで能く記臆して居ることがあります。前申した會田という人の許へ・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・餌を拾う雄鶏の役目と、羽翅をひろげて雛を隠す母鶏の役目とを兼ねなければならなかったような私であったから。 どうかすると、末子のすすり泣く声が階下から伝わって来る。それを聞きつけるたびに、私はしかけた仕事を捨てて、梯子段を駆け降りるように・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫